リツエアクベバ

satomies’s diary

あっちこっちと読みながら

 欲しかった愛、もらえなかった愛。続き/モラルハラスメント・ブログ
 私が悪いんです・今日、思ったこと /明けぬ夜の夢
 「私が悪いんです」という発想、これはまっち〜の中にたくさんあって、モラルハラスメント・ブログの中でも考察ネタとしてたくさん出てきた記憶がある。自分を引いて、そこで得たいものは何か。それを得たときにそこにしあわせはあるのか、そのしあわせは揺るがないものなのか。必要な自省とは何か、必要ではない自省とは何か。
 「基本的信頼感」と「自己肯定感」、これは過去記事のコメント欄で出したことがあって、そのコメント欄にまっち〜が「昔の名前で出ています」。
 映画「ハッピーバースデー 命かがやく瞬間」/S嬢のPC日記
 理屈ではなく、思考ではなく、自己の体をリラックスさせて自分の体を愛おしむように自己の体ひとつひとつの感触を抱きしめる。まちがえてもいい、うまくできなくてもいい、わたしはわたしなのだ、と。ただそれだけで大切な大切な存在なのだ、と。全てはそこから始まるような気がする。
 求めよ、さらば与えられず。/あんたジャージでどこ行くの
 満員電車の中で、隣り合わせた人間に体重を平気で預けてくるような人、精神性というものの中でこうした行動を取る人は、わたしは嫌いだ、と思う。できれば回避したい。立とうとしてよろけながら、よろけながら立とうとして。そうした人には、その重みを預けてもいいんだよ、と思う。そうした人は、必ず自ら立つ位置を見つけていく。
 この文中で書かれていることには異論があって。
>「愛されるためには、自分はどうあるべきか」を考えるようになる。それが、自立について考える始まりなのかもしれない。
 この思考に、「まず相手があって、相手が暗に要求する自分という姿を形成する」という出発点を持ってしまうタイプというものが存在する。これは自立じゃない、依存だと思う。持たされてしまう思考。
 「母親の愛は無償である」と、絵本だの教科書だのと、子どもは刷り込まれていく。それが本来の真実なのだ、と。
 そんなのうそっぱちだと思う。どんな母親に対しても子どもは無心に愛情を求める。そして求めるものを得たいがために、子どもは自分を変化させ、時には自分を殺しながら、自分を環境に順応させていこうとする。
 順応させていこうとして形成した自分は、自分にとって自己を大切にできるものなのか。求めるということから出てきた歪みは、いずれ修正していかなければならなくなる。その修正には、あなたがあなた自身をまず抱きしめようよ、と。そういうことなんじゃないかな、と、わたしは思う。