リツエアクベバ

satomies’s diary

個人面談と、友人とおしゃべり

 今日は娘の学校で個人面談。とことこと歩いて電車に乗って。電車で行くと1時間、車で行けば30分。でも電車を選ぶのは歩くこと、歩きながら音楽を聞くこと、歩きながら音楽を聞きながら思考をすることを選択するため。
 子どもに障害があって、登下校の送迎がある。これを負担と思うか思わないかって話がある。まあ普通の子だったら必要の無い行動ってことで、ネガティブにとらえるのが自然っちゃ自然だと思う。でもね、でもね、朝から歩くのってなかなかよいわよ、と思う。送迎の「送」では帰路は一人、送迎の「迎」では往路が一人、この時間を有意義に過ごすかどうかってのは、いろいろと効果があるよ、と思う。
 わたし個人で言えば、今はこの「送迎」から解放されたけれども、このことで得た経験も思考も思い出も多い。オマケで出てくるのは、音楽聞いていると、この曲はこの時期にこんな思考を持った時期に聞いていたなあ、と、当時の歩く朝という情景が浮かぶようになったこと。音楽とこういう自分の一時期での思いってのがつながってイメージされることは、大人になってからじゃなかなか得にくい、貴重といえば貴重。
 今日聞いていたのは「AI」、今日はそんな感じで歩きたい気分だったから。MIC-A-HOLIC A.I.
 「QUEEN」でふと思考が始まる、何回かリピート。これは昨日あげた文章を思い出したため。 「QUEEN」の歌詞は うたまっぷでコチラ、試聴は ココから。
 AIは声、好きなんですけどね。この曲も、曲調は好きなんですけどね。でもさ、この歌詞、ねえ、と思う。
 いや、あったりまえ過ぎるんだよ、歌詞が、と。言いたいことはわかるんだけどさ、ここに行き着くまでの思考ってのがキーであり、ドラマであり、ってとこが人間なんじゃないか?と思う。で、その行き着くまでの思考なり、ドラマなりってのが、自分にわかんなかったとしても他者の持つドラマとかさ、そういうことってあるじゃない、あるじゃないって。コレって、この歌詞って、要するに「結果を叫んでる」ような気がするんだよね。そういうのって、ちゃんとわかってないと、「QUEEN」じゃなくて「お山のQUEEN」になっちゃうよ、とか思う。なんて思いながらふと、検索ワードを思い出す。まいったね、こんな検索ワードがあるんですけど「S嬢 偉そう」。ゴメンね偉そうで。「QUEEN」でも歌っとくか。
 個人面談は朝の9時半から。午前中にこうしたこと持ってくるのは養護学校だなあ、と、入学して新鮮だった。学区の学校じゃない、みんながちょこちょこっと行ける距離じゃない、午後にこういうもの持ってくると親が面談している間「保育が必要」になってくる児童・生徒が通う学校。留守番なんてこと、当たり前にできる子は少ない。ってことで午前中。
 10時には面談終わり、待ち合わせをしていた友人とお茶を飲みに行く。お茶飲んで昼飯食って、しゃべりまくる。話題が書籍「自閉症裁判」の話に。ここで「へー」という話、この友人の子どもは自閉症、この自閉症裁判の弁護士さんの講演会に数ヶ月前に出席したとのこと。で、この問題を取り上げたもうひとつの方の本を読んだ、と。わたしが出した方の本は読んでいない、と。
 ぱぱっと手短に概要を話す。おお書籍レビューを書いておいて良かった、概要を話すのによどみなく迷わない。え〜〜、そっちの本の方がおもしろそうじゃん、いや、おもしろいよ、マジマジ。学校のPTA図書で今年度購入したから借りてごらん、などと話す。
 話題はそこから自然に自閉症の話に変わり、生育歴の中の自閉症にみられる特徴の話、どう混乱したかなんぞという話を聞く。知的な障害をもつ子どもと自分との間の過去・現在・未来への展望なんぞという話になる。親同士が同じ年齢、子どもが同じ年齢、時代の共有って相手になる。こうした共通項をもつ人間で、腹を割って話せる友人がいることはありがたい。