リツエアクベバ

satomies’s diary

霞先生からトラックバック

「いじめ」に関する一考察/特殊学級担任→養護学校教諭の“ここだけの話”

 注目されるべきことが起きると、関連のあることに対して、なんでもかんでもその芽をほじり出すような魔女狩りは起きる。子どもの発達上、トラブルや仲間はずれというものが起きるのは、それは通るステップの一つのようにわたしも思う。子どもという言葉は、「あの人は子どもだから」という表現でもわかるように、人間性が未熟である、という意味であり、人間性が未熟であることから、もう何でもやる。特にペースメーカーになりやすい子どもは、「子ども」を簡単に従えることができる経験から、巧妙狡猾なやり方を会得していくところがある。
 年齢が幼いと、こうしたパワーゲームに「一休み」なんてものが加わる要素がある。一休みふた休みしつつ、おいしいオヤツや楽しいイベントなんぞでトラブル自体をけろっと忘れて遊んでいる場合もある。ただしそれが全てではなく、幼いなりにも人間関係のトラブルを経験する中で、逃げ場となる家庭が機能していない子どもというものも存在する。一筋縄でいかないのはこういう要素が子どもには大きく影響することだと思う。
 成長の中で、人間関係のトラブルを経験し、そこに自分を学ぶという経験は大きいと思う。しかしその前提でも、程度問題というものはあると思う。
 トラブルでも仲間はずれでも、心理的に追い込まれることに違いはないけれど、外側から見える「形」の問題性というものはある。外側から見える「形」の問題性とは、集団対個という構図により、集団の態勢の形が「逃げ場の無いところに追い込む」というものだと思う。
 ある子どもが集団と対しているところを見かける。その態勢の形は公園の隅、ちょっとした物置になっている倉庫の物陰。三角になった場において、その一番角に一人、そしてそこを取り囲むように数人。視線、そして壁の位置等、この取り囲まれた子に逃げ場は無い。心理的な逃げ場以上に空間として逃げ場が無い。小学校の低学年の集団。
 わたしはその様子を遠巻きに観察し、そしてその様子が見えない位置に移動して、この追いつめられている子を努めてのんきな声で呼ぶ。外側から、別次元の空間から、まず場を崩す。そしてとにかく、この、逃げ場の無い空間に追いつめられた子どもに呼吸をさせる。この子がこのトラブルに向き合うことができるのはここからだと思う。
 年齢が上がれば、この空間の作り方は巧妙さを加える。わかりやすい場所に追い込むことより、本人が閉ざされた、と感じる空間を作れば、それは攻撃の行為者の目的を遂行できる。この空間は人間の無関心によっても作り上げられ、それは昨夜更新した「トラックバック受信二件」の傍観者の作り上げる罪だろうと思う。
 人間関係のトラブルに対して、乗り越える力、というものは、場を自分自身が転換させることや、逃げるという方法論をもてるかどうか、ということが関係すると思う。呼吸ができなければ思考は難しいということはたくさんある。場から逃げる、心理的に追い込まれることから逃げる。そうした逃げを打つ、場を自分自身が転換させる、ということは、自分自身の価値を自分が信頼していなければ、そうそうできることではないと思う。
 集団が個をターゲットにする心理的・精神的な攻撃の罪は、攻撃のターゲットに対して、そうした自分自身の価値を信じる力を失わせていくことだと思う。あなたは大切な存在である、あなたは命をもって生きているだけで充分な価値がある、そうした命というものがもつメッセージを奪っていくことは人間から命の力を奪っていく。
 わたしは、人間関係のトラブルに対して人間を強くさせるのは、「トラックバック受信二件」で出したself-esteemの底力だと思う。self-esteemを養成する、命の力を強めるのは、親だけでなく、家庭だけでなく、地域であり、コミュニティであり、その人間が関わる社会の全てに可能性になる元があると思う。家庭に恵まれなかった人間も、必ずチャンスはある。そして誰にでも、誰かのself-esteemを支援するチャンスがある。それが、わたしがself-esteemの重要性を強く主張し続けるポイントでもあると思う。
 わたしが自分の使うはてなブックマークの「blog」タグに、うどんこ天気のエントリがいくつもいくつもあるのは、彼女が様々な経験から思考し、self-esteemを獲得していこうとする軌跡のもつ魅力だと思う。以下の二つには、重要な登場人物が存在する。

 様々なメディアで紹介をされ、ネット上でモラルハラスメントといえば、という代表的なブログに育っていったまっち〜のところの「自尊心」エントリは、わたしが関わっているだけにちょっと手前みそな気がするけれど、ネット上に存在する価値はやっぱり高いと思う。
 もうネット上から消えてしまったのだけれど、わたしが大事な友人と位置づけている人間が、ある日、自身の中学時代のことを書いた文章をあげたことがあった。それは震撼とする出だしから始まっていた。
 笑いながら人を殴る顔を見たことがある?
 教室という空間の中で、男も女も彼女を殴り、嘲笑し、生きる空間を失わせた。生きるということに七転八倒した彼女は高校に入り、彼女に命の力を吹き込む人間と出会っていく。実際に出会う人間以外というところで、彼女はプリンスが大好きで、プリンスを語るときに「プリンスが生きていていいと教えてくれた」という表現を聞いたことがあって、それはそれで忘れられない。