リツエアクベバ

satomies’s diary

web上で見える人格

 無責任なことは言えないけど、でも、Web上で見える人格というものはあると思う。それを攻撃の対象にするかどうかってことはまあ品性の問題にもなるかな、とも思う。でも、Web上に言葉を記していく結果として(こういう人なんだな)って印象を相手に与えていくことは、事実だと思う。
 「給湯室より/あんたジャージでどこ行くの」 に、コメントを残す。Lsty氏はこんな風に返してくるだろうな、なんて思いながら入れた。ここで出てきたようなリアクションがあるだろうな、なんて推測はあって、その反応を待つのはちょっと楽しかった。
 文意に同意せず、ってものをイコールでネガティブコメントとするかどうかってのは、人によって感覚が違う。というか、閲覧者によっていろいろに解釈できるものをわたしが投げているということなんだけれど。その上でわたしにとってWeb上から見えるハンドルネームLstyという人物は、こういうマイナス的反応を楽しむタイプとして位置づけられているところはあると思う。それは彼が以前書いている「何をしたって誰かには嫌われるのだ」という前提が、言行一致であるということ。と、Web上でわたしには見える人格として、根づいているからだと思う。
 ブログというものは、その場その場で閲覧され、そんな解釈をしているなんてことは、初見の人には全く見えないもので。(なんだコイツは、人の話をそのまま聞けないヤツだな)と思われるかもしれないわけで。Web上に言葉を出していくということは、いつもそういうリスクを抱えているということなんだと思う。だからこそWeb上で明かな失言をした場合は、Web上で初見の人が見たときの感覚というものを、自分の中におきながら対応しなければならないと思う。
 誠天調書に遊びに行って、「藪本雅子ブログ」の一連の炎上を閲覧。「返信」というエントリを読んで、あ〜あ、と思う。自分の側で思うことの記述に大半を割いていて、本当に必要だ、と、わたしが思うことに対しての記述は、後半にちょこっとだった。自分の発言の動機、背景は「自分をわかってもらいたい」という欲なのかもしれないけれど、本当に必要なのは、失言によって得る「視点」なんではないかと思う。自分の発言によって、自分が起こした行動によって明確に知る「セカンドレイプ」なんてことを焦点に持ってきて欲しかったし、自らの中にもある同業者びいきが発言の中に影響してしまう要素、なんてのを自省と共に考察して欲しかったかな、と思う。それは多分、閲覧によってもったわたしの「欲」なんだろうと思う。ただ、この方の行動によって露見したWeb上の人格というものは、この方が作ってしまったものと言わざるを得ないと思った。
 この人がWeb上で作ってしまった人格として、主語の変化に対しても、わたしには相容れないものがあったな、と思う。盗撮という犯罪行為には被害者にも責任がある、という意見表明をしたときには「おばさんは」という一般的なイメージを引き出しやすい属性を使ったこと。そして弁明のときには自分の私的事情を中心にしたこと。
 失言と、その後の展開、ということで言えば、別にこの人だけを責めることはできないと思う。立場や内容としてこの人が目立ってしまってはいるけれど、同様の「人称に対してのご都合的変化」や「自分をわかってもらいたい」という欲が先行していくのは、あちこちに見られることだと思う。
 じゃ、オマエはどうだ、と言われれば、失言というものはけっこうやったな、と思う。人間は失敗をするわけで。大事なことは失敗のその先なんだろうと思う。痛みをもったとしてもそこで新たに発見を見出していくことは、その場の自分修復のための自己防衛的思考より、ずっと価値が大きいとわたしは思う。
 自戒をこめてこんな文章を残すことで、ちょっと自分を追い込んでおこうかな、なんて思う。Web上になんらかの「考察・意見」なんてのを出していく上で、必要な視点なんだろうと思うので。必要なのは「口」だけではない、聞くことのできる「耳」と、公開された場に出していくことでつかむことのできるものを見つける「目」なんだと思う。