厳密に言って「コメントレス」なのかどうかわからず。話しかけられて調子にのって、だらだら加えてるだけかもしれない。
以下、だらだらと、入れようと思ってたことをここに記載。
lsty
『 平和というか、何も考えてないんでしょうね。日々、自分の心の動きについて多少なりとも考えて暮らしていれば、あんな頭の悪い人にはならないと思うのです。普通「あの人嫌い」と思った時に「なんで嫌いなんだろう」って考えますよね。その過程で、自分の汚さとかに気付くだろうと思うんだけどなあ。』
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20060705
ここで出てくる「A子」のような人に実生活で関わると、イライラっとくることがあるんです。
でもねえ、それは相手を批判している、というよりもある種の嫉妬かもしれない、と思う。
それは人間のもつ、他者に対してすっと出てきてしまう不快感ってのは、実は嫉妬とからんでいるのではないかという考察から。
ん〜で、このイライラってのは、まあちょっとうらやましいところがあるんだろうな、と。気づいたり、続ける思考、なんてのをもたなくてもやってこられた幸せ、ってのがあるんだろうなと。だから息子の受けているイジメに対して、思考する、というよりは混乱してる。そこに足りないのは、Lstyさんの言う部分だと思う。
まあ、いいんだ。それはそれで。いろんな人がいるわけだから。
ただこの話の変な流行りの中で、妙な予定調和に向かう「起承転結ちゃんちゃんちゃん」ってとこを望むストーリー意識なんてのに惑わされちゃいけないんじゃないか、と思う。その「起承転結」に短時間で進めるような伏線のような材料は、この話の中のエピソードにはちゃんと仕込んであるんだし。
ここに出てくるB氏って、なんだかデパートとかにいる実演販売の人みたいだ。なんでも切れる包丁で、卵とかトマトとか切ってる人。なんでもよく落ちる洗剤とか。
「五体不満足」でね、乙武氏のおかあさまが、最初に「手も足もない赤ん坊」を見たときに「かわいい」と言ったという記述があって。姿形の異常に産婦の衝撃を考えて、ずっと産婦に赤ん坊を「見せなかった」日々ってのが明けての対面で。産婦の衝撃ってのの周囲の心配をよそに、なりたての母は異常な姿の我が子を見て「かわいい」と言ったと。
これね、けっこう考え続けてるんですよ、何故だろうと。
今のところ出ている自分の中の結論ってのは、姿形の異常よりも、自分が生んだ赤ん坊を「取り上げられ」て、なかなか自分に返してくれなかった、と。その寂寞感のような気持ちの方が、見た目の「異常」に勝ったんだろうなと。
ただ、これをこのことを、美談感動のエピソードととらえすぎる人が、その後の誰かの悲劇を作っていくところはあるんだろうな、と。わーっと驚く人の方が数は多いと思うのでね。新生児の先天性の四肢の異常に対して「わーっと驚く人」「衝撃にうなだれる人」ってのを、支えてきた人がいるわけだから。
ぶっちゃけね、A子のような人がいたっていいんですよ。まああんな形で「救われて」っても、それはそれでいいんですよ、わたしは。それでたどりつけるところがあるんなら、それはそれでいいんじゃないかと。
ただね、それを妙なストーリー化して、変なメッセージ性をもたせて出していこうとするから変なことになるんじゃないかと思うんだな。この話はここでいう「鏡の法則」の例示のようでいて、実は例示ではない。印象を「感情の同化」にもっていこうとする。そしてその「感情の同化」で正当化しようとする。そのために用意されたかのような結末に向かって盛り上げていく。都合のいい伏線もそのために見えにくくなってる。
ここでいう「鏡の法則」を語ろうとするんなら、もっと違うやり方があるはずだし、わたしはそっちの方を支持するだろうな、と思う。
だから、危ない危ない、気をつけましょうぜ、ってのは思う。
あとさ、ものすごくつまんないことなんだけどさ。このA子の年代の「父親」の年齢層で、一人称を「わし」って使う人って、ホントにいるの?ってのは思ったな。もうひとつ上の世代だろうと思う昭和元年生まれの夫の父も、「わし」なんて言わないもんね。なんだかさ、お話ってものの、紋切り型の表現って感じはしたな。こういうのも醒めた目で見るポイントにはなったと思う。それとも地域的なものって、あるんですかね。