リツエアクベバ

satomies’s diary

その人が書く言葉というもの

 はてブにLsty氏の文章をクリップ。タグをなんてつけていいかわからず、ああこれはこのタグなんだな、と[lsty]というタグをつける。

思考停止は「『理解』という思考終了」よりはマシだろう。/あんたジャージでどこ行くの
 真実というのは、常に手の届かない所にある物だ。だから僕は、決めつけをし、レッテルを貼る。「僕には分からない、だから今回はここまででやめておこう」と思考停止する。立ち止まり、そしてまたいつか、歩き出す。

 この文章の意味ってのが、よくわかるなあと思う。知らん人のこの文章を読むってことじゃなく、文章としてどうのとか表現としてどうのってことじゃなく、彼の記すこの文章ってのがよくわかるなあと思う。
 なんでよくわかるなあと思うのか。それは彼との今までの文字のつき合いの中ってので、この部分が理解できるなあと思うこと。実際彼はこの考えの中で動いているってのが、実感としてよくわかる。
 どこをどうリンクして、ほら、と言えばいいのかわからない。これは積み重ねてきた印象というものもあるのかもしれない。それが全てとは言わないけれど、その中のたった一例というヤツを思いだして掘り出してくる。 

2/24-26日記(初心者JAZZ・自閉症裁判・岩松了)/他人の不幸は蜜の味
・「こういうこともあるんだろうなー」と。しかしそれを容認するわけでもなく、多分いつか、この話を思い出すのだろう、というような話。

 わたしが出した一冊の本の話を読み、彼はそれを購入し読了し、そのことを日記としてあげる。わたしたちはその一冊の本を間にして会話をするけれど、なんの結論も出さない。そこで何か具体的に議論していって結論なんてものを出すことにどんな収穫ってものがあるだろうと思う。もしそれをやったとしたら、自分たちがもつなんらかの小さな、言ってしまえばたいしたこともない満足感くらいのものなんじゃないかと思う。
 彼とコメント欄での対話ってのをやってきた印象の中で、とりあえずの思考停止ってのはいくつもあったと思う。それは終了じゃない。また別の対話をするときに、どこかそのいつかの思考停止ってのが微妙に関連なんぞしているような印象ってのがある。どこをどうというようなはっきりしたものではなく、でもそれは確かに感じるもののようにも思う。
 彼は「立ち止まり、そしてまたいつか、歩き出す」。このことをわたしは知っているようにも思う。人を知り、その人の記す言葉を読むってのは、そういうことなんじゃないかとも思う。

追記

掘り出してきた関連リンク
S:BOOKMARK / 2007年02月19日[lsty]