リツエアクベバ

satomies’s diary

ものがたり

来月、娘の通う作業所で、今年度二度目の面談がある。一度目の面談は5月だったと思う。法人の方針や娘の様子など。ふと話題が途切れた時に「こんなことがあったんです」とわたしは話し出した。別にここで話さなくてもいいことだったかもしれない。でも、なんとなく誰かに話してみたかったのかもしれない。
娘が生まれて、闘病があり、家で生活するようになって。その頃だから21年前くらいの時に、ある方から一通の手紙が届いた。もう手元には残ってはいない。多分捨てたんだろうと思う。その捨てた時にどんな感情をもって捨てたのかももう覚えていない。多分忘れたかったのかとも思う。
それは父の郷里の人間からだった。「そういう子を産んだら、もうこちらには来ない方がいい」と書いてあった。娘を生んで初めて手にした、知的障害に対しての差別らしい差別だったと思う。「配慮」という衣を着てそれは突然現れた。
わたしは両親にその手紙と内容を伝えた。それ以上のことも、もう覚えてはいない。ただ、それからわたしはもう、新潟に行くことが無くなった。わたしの意志ではないところで。
父の郷里は法要をきちんとするところだった。小さい頃から法要の手伝いをわたしと姉もよくしていた。この手紙が来た後も法要の機会はあった。でも、わたしはその日程は知らされなかった。要するにわたしとその家族はいつの間にかそのメンバーには入らないことになっていた。姉がオーストラリアからわざわざ呼ばれることがあっても。
わたしはそのことに、「せいせいしていた」。そう周囲にも言っていた。煩わしいことに関わらなくていい。それは気楽なことだと。そんなことももうどうでもよかった。わたしはしあわせだったから。
父が死んだ。父は元々自分の葬儀についてわたしたちに指示を出していた。東京で家族葬。車代を出して郷里から呼ぶ人間のリストもあった。父がそうした指示をあらかじめ話していた時に、わたしもたいして気づいていなかったことがあった。父の葬式は娘が父の親族と初めて出会う機会になるってことを。
通夜の日、家族葬ということで少ない人数ながら、新潟からもお客様をお迎えした。わたしはお久しぶりにお会いする方に次々と挨拶をし、この方たちとは初対面になるわたしの家族を紹介していった。その時に。娘の挨拶に対してぷいっと横を向く一人がいた。わたしはゾクッとした。シカトかよ、ここまで完無視かよ、娘はちゃんとご挨拶したのにテメーはシカトかよ。ああ。今日の通夜、そして明日の告別式を終えて、次は49日の法要がある。一度も連れていったことのない父の郷里で、わたしはこんな思いをするんだろうか。娘に息子にこんな思いをさせるんだろうか。
通夜振る舞いの席で、場が和やかになっている頃、本家の跡取りの女性のところにわたしは行った。彼女の背後にかがんで小さい声で「聞いて欲しいことがあります」と言った。「49日には娘を新潟に連れて行く。その時に、娘が嫌な思いをしないように○○オバ様(本家のドン)にどうぞどうぞよろしく伝えてほしいのです」。
「わたしは。娘が赤ちゃんの頃、ある方からお手紙をいただきました。『そういう子を産んだら、もうこちらには来るな』と書いてありました」。
「だからずっと行かなかった。でも、四十九日には娘を連れていかなければなりません。娘が嫌な思いをしないように、どうぞどうぞよろしく伝えてほしいのです」。
さらっと言おうと思ったし、そのつもりだったのだけれど。口を開いた途端にわたしの口からこぼれ出たのは「嗚咽」だった。完全に裏返り、声が言葉になるのも困難な状況に、一番驚いたのはわたしだったかもしれない。ああ、わたしは傷ついていたんだ、と思った。思いながら、わたしは彼女に思いっきりチクってた。
「さっき娘が☓☓さんにご挨拶をしました。ご挨拶をしているのに、☓☓さんは横を向いて、娘をまともに無視しました。そんな思いをもう娘にさせたくありません」。
母が、驚いてわたしの方に進み出た。この時の自分が、この日わたしが一番驚いたことだと思う。
「わたしにさわらないで! あなたは全部わかっていて逃げた。今までわかっていて何もしてくれなかったし何も思ってもくれなかったくせに!」。
ちゃんと言えばね、父はその「手紙」の話にのっかったんですよ。父も自分が偏見強いからどうしていいかわからなかったんでしょ。それと父に直接「オマエは法事に呼ばない」と言われたことも無い。ただ教えなかっただけ。そういうことを認めて言い渡しちゃえるほど、父は「悪い人」じゃない。そしてその「呼ばない」「教えない」を母は知っていて、何かしようとはしなかっただけ。以前母はわたしには「別に(法事に)行ってもいいんじゃない?」と言った。「それ、わたしに言うことじゃないよね」と返した。それっきり。姉には「アンタばっかり法事に行かなくてズルい」って言われた。「いや、行かないのではなく日程すら知らされない」と答えた。「ふうん」と言われた。それだけ。うちはね、家族全員わたしに対して「察してちゃん」なんですよね。そもそもが。みな好き勝手な方向を向く。わたしは「そうか」と思い、それに沿った行動をする。そうやってわたしも流してきた。でも、そういう「察してちゃん」流れをわたしが選択する時に、わたしの家族は犠牲になる。
とまあ、通夜振る舞いの席は少人数ながらにけっこうな大騒ぎになりました。というこの「ものがたり」を、わたしは淡々と娘の面談時に娘の通う作業所の職員さんに話した。あらまあと自分で思うのだけれど、わたし今日はこの話をこんなにさらっと言えますね。わたし、超えたんだなあ、きっと。
「わたしの方が泣きそうです」。と、職員さんが涙目で言った。ああそうか、そういう話なのか、やっぱり。と、職員さんの目を見ながら思った。
さて、このちょっと大騒ぎになった通夜振る舞いの席。わたしが自分の席に戻って下を向いていたら、母方の叔父が立ち上がって言ったんです。「さとみちゃん、オレの胸で泣けい」。そうしたら、夫がすっと立ち上がって言ったんです。「ダメです、それは私の仕事です。渡しませんよ」。
叔父さんとは後でメールでたくさん話しました。叔父はこの自分のアクションが実はかっこわるかったんじゃないかって凹んでたから、すごいかっこよかったと返しました。でも夫もかっこよかった。
それからいろいろな人と話してみると、わたしが新潟に行かなかったのは、わたしが田舎を嫌がって避け、それを両親が言えなかった、ということになっていました。そりゃ違う違う。49日法要の時に新潟に行くと、20年振りにお会いする方ばかりでうれしくてうれしくて仕方なかった。また、父も何を怖がっていたんだろうと思うほど、娘を連れていっても何も怖がることはなかった。「完無視おじさん」も今は「おそるおそる」娘と接し、やわらかに娘のことを聞いてくださる。
「そういう子を産んだら、こちらにはもう来ない方がいい」の出先の方、わたしはこの方を恨んでいたと思う。自分の発言の行方にちっとも関心をもっていなかったことが許せなかったんだと思う。この方は。本当に年をとっていらした。亡くなる寸前の父よりも、もっともっとあっち側に近そうな弱り方だった。身体もそうだけど足がすっかり弱ってらして、法要の後の料亭でトイレに行くときに、行くだけでなく小用にも両側からの支えが必要だった。その両側からの支えを、夫と息子がしっかり担ってくれた。この二人は頼もしくかっこよかった。わたしは、しあわせなんだと思う。

  • (追記)わりと肝心なとこをすぽっと抜けて書いたことに気づいて一部追記。追記箇所は「来るなと言われたから行かなかったんだよ」と通夜の席で言ったこと。こういう肝心なとこをすぽっと抜けて記述するほどに、わたしにとってはどうやら単なる記憶になったらしい。めでたいめでたい。