リツエアクベバ

satomies’s diary

数珠

わたしは特に信仰という信仰はなく、いわゆる葬式仏教というか葬儀法要の時だけ数珠をもって手を合わせる、まあ平均的な日本人だと思う。
姉にね、数珠を買おうと思ってるんですよ。最近ネットでアレコレ見てる。いや別に宗教押し付けでもなんでもなく、父死んで(ああそうか)と気づいたことは、わたしは自分用の数珠を持っていて姉は持っていないということだったので。
わたしの数珠は、母方の祖母が嫁入り道具に贈ってくれたもので。最近母に聞いたのだけれど、わたしが祖母から贈られたこの数珠はけっこう高価なものだったんだそうだ。おばあちゃんが持たせてくれたという以上の感覚や、その金額的な価値などは今まで考えたこともなかったので、そういう目で見てちょっと驚いた。ものは「珊瑚」。
桐箱入りだの高価そうな数珠袋だの、そういう風に贈られたわけではなく、祖母の手縫いの絹の巾着入だった。もうとっくに祖母は亡くなってしまったので真相はわからないが、買ったものではなく誰かのものを「つないだ」のではなかろうかと思う。祖母の孫の中で最初に結婚したのがわたしで、結納前の両家顔合わせに参加し、なんでも先方が旧い家柄らしいということだと。それが関係したのではないか、と、勝手に今は思っている。
姑はいい人だったけれど。でも結婚当初は姑姑したところは鼻についた。いわゆる嫁入り道具的なものには一様に、ケチを付けた。それがまあなんというか、たいしたことない程度だったから、やっぱり姑はヤなヤツにはなりきれない人だったんだと思う。まあケチはケチだったから、当時は内心(ホントにこのババアは)と思ったことが無いとは言わない。ただ歳月はわたしたちを変化させ「大好きなお義母さん」で見送ることはできた。その姑が、ぐだぐだとケチを付けたもののひとつでもあったなあとも思う、この数珠。なんなんだよいったい!と、わたしの怒りが腰を上げる頃に、「いいの、いいの、なんでもないの」と終わることのひとつで、その些細なチクチクは誰に言っても仕方がないもので、そんなものの一つだったよなあと思う。
父の納骨の時に、母方の叔父に数珠を見せた。「これはおばあちゃんが嫁入り道具に持たせてくれた」。そうか、と叔父が言いながら数珠を見た。その表情を見て(マズい)と思った。あの表情からするに、祖母が数珠を持たせた「孫」は、どうやらわたし一人なんだと思う。それを感じたわたしがちょっとつまってしまったら、叔父は小さくにっこりしてこう続けた「これで随分たくさんの人を送ってきたねえ」。ああそうだ、本当にそうだ。この叔父のつながりだけで言っても、祖父、もう一人の叔父、祖母とこの数珠で送ってきたんだなあと思う。そして父を送り、この先のいく道で母を送り叔父も送るんだろう。
姉は祖母にとって初孫だから、本当はこの数珠は姉にいった方がよかったのかもしれないとは思う。ただキリスト教信者の外国人と結婚して外国に住む姉に数珠というのはぴんとこなかったんだろうと思う。そして、母方の親族だけではなく本当にたくさんの人を送る時に携えてきたこの数珠は、もうわたしにはなくてはならなくなっているもので。自分の心の波立ちを見てきたグッズというか。わたしが死ぬまでわたしはこれを使い続けるだろうと思う。
父が急に死んで。ばたばたと動きながら急に思い出して姑の形見を取り出して腕にはめた。水晶の腕数珠。ざわざわする気持ちを姑にすがって落ち着かせるような感じがした。「姑の腕数珠だ」と母と帰国した姉に見せると、母もすっと腕を出した。「わたしも腕数珠を持っていたと急に思い出してはめてるんだ」。
その時それを眺めていた姉の表情が気になった。葬儀の翌日、朝からネットで探しまわった。すぐに腕数珠が買える店を近所に探す。辛気臭くなくてきれいなヤツ、でも単なるパワーストーンブレスっぽくないヤツ。そして「そんなに遠くない場所の仏具屋で、品が良くオシャレなもの」を購入。翌日それは、ほっとしたような表情の姉の腕におさまった。なんかね、最近思うんですよ。こういう仏具みたいなものが宗教用具じゃなくて、「日本って仲間意識っぽいもの」として姉につながってるんじゃないかなあって。そんなことを考えてたら姉に数珠を買いたくなった。
今思いついて、いろいろアレコレ物色してるのが、真珠の数珠。海外の自宅に置くのになんか辛気くさくないんじゃないかとか思いながら商品写真を眺めてる。amazonでも売っていて、価格OFFとかレビューとか出ていて、それはそれでなんとなく(へえ)とか思った。