リツエアクベバ

satomies’s diary

母の愚痴

所用あり、母と電話で話す。ついでにもろもろと話す。そして子どもの話。
息子に関してのこと。これこれこういうことがあった。問題解決のためにある提案をした。その問題の根っこのところに解決すべきポイントがあり、表面上の感情的な摩擦ばかりに左右されてしまうとそこが見えにくくなる。その解決すべきポイントに向かっていくのに、どんなアプローチがあるかうんぬんとかという話。
あのさあ。と、母に言う。ちぃちゃんみたいな子どもを育てるってことはさ、やっぱりしょっちゅう「自分が死ぬこと」を考えるんだよ。わたしは死ぬ。わたしはこの子たちを残していく。わたしはこの子たちに何を渡して死んでいけるか。それは自分の根底の中にしっかりと日常的にあると思うんだよね。で、それは、はっきりとした障害というものをもっていない息子に対しても、やっぱり思うんだよね。多分「自分が死ぬこと」という思考がわたしにとってはひどく日常的なことだからだと思う。
人間はさ、いろんな人にいろんなキャラがあると思う。その自分のキャラなりに、自分の個性なりに、というとこで。自分にとって一番しっくりくる問題解決能力というものをもつことが必要だと思うし、あの子にもそれは習得してほしいと思うんだよね。だからいろんなことに関して「一番大切な何か」をしっかり把握する学習の経験は積んで欲しいと思うんだ。
なんてことを話しながら。わたしが母からしっかりと教わった思考とかを話しながら(本人渡した自覚は無いそうなのだが、わたしの根底でかなり影響を受けている「原則」みたいなものが存在する)、あれこれと話していて。まあ「先に死ぬ」という強い意識は無くとも、渡したり流れたりするものはあるよねあるだろうなとか、マズいもんだって流れるしねえとかなんとか。
そんな流れの中、母は「でもさあ」と、とてもくやしそうな声を出した。
「◯子さんったら、『あんな子産んだらうかうか死ねないですよね』とか言うのよ、そんなことをわざわざ言うのよ、わっざわざ言うのよ。ホントにくやしいったら、ぶーぶーぶー」。
「◯子さん」ってのはわたしにとっての叔母ですな、母の弟の奥さん。昔っから母とは合わない、うまくいってない、なんとかなんとかやってはきたけれど、まあこういうネタには事欠かない。そして「あんな子」とはつまり、知的障害児であるわたしの娘のことを指す。「あんな子」と口に出して言う時の侮蔑的な表情とか声色とか、とにかく叔母の「あんな子」発言に、母は気も狂わんばかりにキーキーする。
母がとてもとてもくやしがった叔母の一言があって。わたしが10年くらい前に祖母のお見舞いに夫と子どもと一緒に行った時、叔父叔母と会った。その時のことを事後に母に対して言ったというフレーズ。
「あんな子を連れて恥ずかしげもなく偉そうに。ああやって堂々としてられるのはよっぽどダンナさんがいいんでしょうね」。
母はこの一言をくやしそうにくやしそうにくやしそうに、憤懣やるかたない顔でわたしに言った。今でも折にふれてこの話を出してくる。くやしくてしょうがないんだろう。
わたしはこの話が出る度におかしくて仕方がない。おかしくておかしくて仕方がない。あのね、この一言はぶっちゃけ大きく意訳すると「わたしはとてもしあわせであり、そしてそれは見ただけですぐにわかる」ということになる。「恥ずかしげもなく偉そうに」見えるほど、ごく普通の家族風景であり、しかも配偶者まで褒めていただける。この一言のオチはそういうことだ。叔母が知的障害をもつわたしの娘に対してどう偏見を持とうが、叔母とわたしの娘は直接的に接点を特に持たない他人の一人でしかないので別にどうということもない。全ての他人から偏見を無くすことができると信じるほど、わたしはおめでたくはないと思う。叔母が直接娘に対して指さして罵倒でもすれば即座にわたしは戦闘態勢に入るかもしれんが、わたしの娘と叔母が同じ場所にいたときには、叔母は「常識的な態度」という線を守っていたのだから特にルール違反でもマナー違反でも無いと思う。多分、叔母は自分の「あんな子」発言が母の感情を確実にかき乱すことを知っているんだろうと思う。叔母にとっての武器であり、その線で言えばもはや実際のわたしの娘とわたしがつなげてなんだかんだ思う思わされる義理も理由もひとつもないとわたしは思う。そんなもんでよろしくはないか?というのがわたしの感覚。その上で「結果的に」は、「堂々としあわせで、寛容な配偶者に恵まれている」という解釈をしていただいているのだから、まあありがとうというところでしかないよ、と。
だってだってと言いながら母がぶつくさと言う。わたしはわははと笑う。まあ娘のことが無くてもこの嫁小姑はなんだかんだバトルってきたのだから積み重ねている層の感情もぶすぶすとあるだろう。娘が格好のネタ扱いにされていることは卑怯といえば卑怯だけれど、その卑怯さが出てきてしまうほどには平和だということでもあるかもしれない。
ちなみに叔母は自分の子どもたちに関してのことで、叔母が「母親として自分の思い通りにならなかった」ことがあり。それを「それぞれの家庭にはそれぞれ抱える不幸がある」ということで、「義姉のとこだってほら初孫がアレじゃない、アレ」というところを常に持っていたいらしい。まあ勝手にやってくれ。祖母の葬式に関しては叔父が喪主でわたしには葬儀の連絡の際に「一人で来い」と指示があり、その後の法事関連についてはわたしには関わって欲しくないらしい。非常にわかりやすく希望を出してくれる。そんなこんなでこの叔母と娘が次に再会するのはわたしの両親の葬式くらいしか機会は無いと思う。その頃には娘はさらに大人になっており、わたしはそのことが誇らしくて仕方がなく、その再会時にもやはり(偉そうに)と思われるのだろう。わはは、ドヤ顔でも練習しておくか。