リツエアクベバ

satomies’s diary

母親像 

そこまで努力しても/kmizusawaの日記
30年以上昔の一家庭の光景ではあるが、教育再生会議の人なら褒めてくれるんじゃないだろうか。
しかしそこまで親が頑張っても、その子は親をうっとおしいと思うだけだったし、成長してからは、結婚もせずふぇみにずむや左巻き思想にシンパシーを感じて政府の批判ばかりする、いい加減で無神経なダメ人間になったそうだ。

 この話、わたしの母が読んだなら、と思った。多分後半のその「しかし」は頭には入らず、前半分でへこむんじゃないかと思う。
 長時間テレビを見せないようにする、というより、自分がだらだらとテレビがついていることを嫌うために「イヤだ」と言ってテレビを消した。俗悪番組の類は「脳味噌が腐る」なんぞと言ってはいたが、見たがるものを斜めに見ていただけで、たいして禁止はしなかった。そのかわり本人が好むNHKの番組をなんとなく子どもが眺める環境ではあったので、教養番組でのダビンチやミケランジェロの生涯や、古典文学の研究番組の内容はなんとなく記憶には残っている。
 夫婦仲が悪く、暗い顔をすることが多かったけれど、そのかわり自分が好きな映画で自分の鬱屈した感情を発散していたのだろうと思う。自分が観たい映画を観るために子どもを映画館に連れて行った。わけわからんままに「2001年宇宙の旅」をロードショー公開で観たのは幼児期が終わるときだった。自分のために連れ回す後ろ暗さか、時々は子どものため選択もしなくちゃという感覚もあったのか、ディズニーの実写版は全て観たと思う。父親が時々わけわからん大騒ぎを爆発するのだけれど、渋谷の駅の雑踏の中でぎゃんぎゃんと爆発して母に怒鳴り、それを見ながら通り過ぎていく人々という記憶は、やはり映画を観に行ったときだ。あれはオードリーの「暗くなるまで待って」だった。こういうことになるから映画は母子だけか、叔父と一緒に行っていたのだけれど。でもごく普通に家族でというものもやりたかったのだと思う。惨めな失敗には終わったけれど。そして全く子どもの年齢を考えちゃいない選択だよな、とも思う。今から思えばよく字幕を読めたもんだと思うけれど、ストーリーはしっかりと理解し、この映画は面白かった。
 姉が6年になってから私学の中学に行きたいと言い、出だしの遅さから苦労したために、次女には早くから塾通いの体制を敷いた。でもちっとも勉強せず怠けてばかりいて、進路指導で模試で出てくる数値の学校よりも低い学校を安穏と選んでも、それでも何も言わなかった。塾だの模試だの、けっこう苦労も金もかけただろうのにと、今となっては不思議にさえ思う。
 母親としてしなければならないこと、ということが頭にはあったと思う。それでもそれを実現できるほどには、母本人自身の心理を守れる生活ではなかった。夫は夫としてはっきりとおかしい家庭だったと思う。知識と教養は高い方だったと思う。必要なことを察知して子どもに与える目もあったと思う。なんだかんだとぶつくさと思考するわたしに、早くから児童書として哲学書を与える母だった。ちくま少年文庫の哲学シリーズというものを全巻でそろえたことをよく覚えている。ただ小学生のときに中学生レベルというとんちんかんさではあったけれど。それは早くから先のものをというエリート思考ではなく、これこの子に買っとけばという感じで、時期なんてものはそのうち追いつくんじゃないかなんていう、けっこう勝手なものだったと思う。変な本がいっぱいあるなあという印象がありすぐには読まず、そのうち読み始めたけれど、最初から無関心で読んだかとも聞かず、まったくもってほったらかしだった。
 環境として与えることはしても、こうしろとはひとつも言わなかった。他の人がこうだからとか世間がこうだからとかなんとかという類を、不思議なくらいひとつも言わなかった。成人してからそれは何故だと聞くと、わからない、と。でも自分の母親が管理主義者でそれがイヤでイヤでたまらなかったからだと思う、と答えた。大きな商家という裕福な家庭のお嬢さんとして育ち両親と祖母に溺愛され、あまり考えることはなく敷かれたレールを歩き、イヤだと思うことはあっても反抗というものをしたことが無かったと。生まれて初めての親への反抗が結婚で、その結婚が自分にとって不幸なものだったと。大きな病院の院長との結婚が決まっていてその縁談を母自らが壊し、父親に「あの男ではダメだ」と泣かれたその男の元に走った母。そしてすぐにわかる自分の選択の失敗。母の結婚後の人生はそれだけでいっぱいいっぱいだったんじゃないかとも思う。実際母が鬱屈した思いに悩む時間というものは生活の中の随所にあり、そういうときにできる隙のような時間の中で、時々子どもは大きなケガをした。今は薄くはなったけれど、わたしの体にはかなり長いこと派手についていた火傷でできたケロイドがあった。
 母の不幸な結婚生活。なんだかんだともろもろとはあったけれど、小さいときから次女がくるくると解決に動くことを気づいていたと。本当は子どもにこんな役割を負わせてはいけないのだと、それは気づいていたと。でも自分には力も意志もなく、それが楽なままにその流れに任せてしまったと。自分は母親として失格だと言う。
 姉は母を、母親としてあまりよくは思っていない。母親として、というところで欠いたものは確かにけっこうあるとも思う。でもこの人を母として生きてきて、けっこうおもしろかったな、と思う。母親に言っているのに、母親という立場からではない言葉が返ってきて、そのことに発見をしたということも少なくなく、でもそのわたしに影響を与えた発言自体をちっとも覚えてなかったりする無責任さというものも多く、おもしろいなあと思うことも多い。
 ただ。立派な母親の話を聞くといつもへこむ。自分はちゃんと母親というものができなかったとため息をつく。母が参観する授業の発表というもので、下記の歌を聞いたときに、なんか心底へこんでいた姿を思い出す。

「おかあさん」江間章子作詞・中田喜直作曲

 kmizusawaさんのところにリンクされてた下記のもの。母がこれを読んだら、多分まちがいなくへこむ。批判よりもへこむんだろうと思う。

教育再生会議による「親向け御触書」/覚え書き

 「母乳で育児」。この言葉で母乳が出ない出にくい人は痛みをもつと思う。でも母は全く別種の痛みをもつと思う。平和は無くても金だけはあった家庭。わたしの出生後、家にはお手伝いさんが住み込みで雇われていた。この方が自分が子どもが欲しかったということがあったらしく、自分の仕事という大義名分をもって母から赤ん坊を取り上げて自分が溺愛した。そこで母乳育児は邪魔だった。わたしは母親以外の人間に乳児期に溺愛されたために、母乳育児をされる経験を失った。様々な理由から、母はその流れに抗えなかった。その様々な理由は、出してしまえば他者の批判にさらされるのかもしれない。でもその人固有の理由というものが、その人間に与えてしまうものは大きいのだとわたしは思う。それでもその流れにあらがえなかった自分を、母は思い出すのだと思う。そしてその自責の感情から、その後のものももう読めなくなるんじゃないかと思う。
 正しいも正しくないもない。人間の人生というものはそういうものなんじゃないかと思う。それでいいんじゃないかとわたしは思う。そしてけして教科書的なものでなくても、わたしが母から手渡され、受け取り、生きていっているものは多いと思う。そして気づくと、そうして受け取ったものを、わたしはまた我が子に渡そうとしているようにも思う。