リツエアクベバ

satomies’s diary

教師と保護者の距離感

障害をもつ子の教育という線で、教師と保護者の距離感というものは難しいと思う。特に小さい頃、特に小学生の頃、育てるという上での困難さ、生後からのストーリー等、保護者と教師とでの情報交換の中で保護者の心理的な部分まで渡しやすいところはあると思う。
そういうとき、「いい人」になり過ぎる教師はやっかいだと思う。担当になる教師との関係は、子どもが育っていく中での「点」としての関係で、教育という目的行動の上にあるもの。心理的に過度の期待を受け入れることは、他の教師との出会いを妨げるものにもなりかねない。
霞先生んとこの過去エントリを思いだし、掘りに行く。

保護者(母)からの相談/特殊学級から養護学校、そして特別支援学校

べったりの「身の上相談」から、男性教諭と母親とが「男と女」になだれこむ可能性の存在、というお話なんだけれど。
でもそうした道ならぬ関係がどーのということでなくたって、心理的になだれこむ関係というものは、わたしはいいとは言えないと思う。共同作業以上の心理的な依存というものを、教師が受け入れることの弊害はあるんじゃないかとも思うから。情報は情報、目的に立ち戻ることの整理というものは必要だと思うから。
最近、時々耳にする。教師と保護者との連絡に携帯メールという媒体を使うことがあること。
わたしはメールという媒体には「密室化」という一面があると思う。「密室化」、そして送信という形で成立する「言いっぱなし」、心理的に揺れがあるときに内容に発生しやすい「夜の手紙」的性質。
その線を教師と保護者の双方が認識し、常に誰に開示していい状態のものになっているのなら何も言わない。でもそうした線を携帯メールという媒体を使う教師と保護者のみんながみんな、果たして本当に認識しているのか、けっこう疑問。
わたしは保護者という立場で。そして特に子どもがもう大きくなった「ババア層」の保護者であるわけで。だからそういう教師に対して思うんだよね、まだまだ心理的な支援が必要な若いかーちゃんたちに対してさ、自分が「いい人」になるという線で、そうそうそそのかしてくれるなよ、とね。過度の期待を育ててくれるなよ、とも思う。
まあ古くからのドラマの「熱血教師」たちは、みんな自分が特別な人になりたがってるんだけどね。本来存在しなくちゃいけない線というものを、自分だけはと踏み外し、そしてそのことを「熱血教師」という言葉で正当化する。
でもさ、特別になる教師ってのは、べったりと特別なことをわざわざやらなくたって、本来の線でちゃんと特別として残っていくんだと思うけどね。