リツエアクベバ

satomies’s diary

昨日のちょい続き

「だいすき!!」第八話で、ヒロインの弟の恋人の父親が結婚を反対するシーンで。コイツと結婚することで、オマエが知的障害の子を生むかもしれないってことはどうなんだ、みたいなことを言うんだけれど。
いやどこの家庭にだって、生まれてくる可能性はあるんだけれど。人が身近なところでこういう家庭と親族になることを避けたいのは、漠然としたとこで「誰にでもそういう可能性がある」ってことを認めたくないからかもしれない、とも思う。避ける、いないものとする、ってことで安全を保つ、みたいなとこかなあ、とか。
障害をもつ子が生まれたときに。「うちの血筋にそんな子はいない」なんて言葉を吐かれるというケースがあるんだけれど。これはまあ、配偶者の両親に言われるのがつらいパターンだけれど、ウチは実父からわたしに対してコレが出ましたね。タネが悪いと言いたかったんだろうか。つか、わたしにそんなこと言ってどうせいっちゅうんじゃ、ってことなんだけど。まあうちの父はこの手のことは言うだろうなとは思ってたから、特になんとも思わなかった。それよりこの、自分の両親に「生まれた赤ん坊はダウン症児でした」と告げた日に母から受けたインパクトの方が強すぎて、父の反応は微々たる感覚でしか受けてなかったし。
母から受けたインパクトってのは、あのさ、と差し出された一冊の本。「全然そんなこととは思ってなくて。でもたまたま借りて読んでたのこの本、アンタも読んでごらん」と。その本とは「生命(いのち)かがやく日のために」。そのタイミングでこの本って、すげ〜よかーちゃんってば、って感じだったなあ。
それでもってわたしは全然知らなかったのだけれど。そしてわたしの母もとうに忘れかけていたことらしいんだけれど。わたしの母の母、つまり母方の祖母。この祖母にとっては「妹が産んだ娘の子はダウン症」だったそうです。要するにわたしの母は「従妹にダウン症児の母親がいる」ってことだったそうで。母にとってはかなり遠い存在の従妹で「忘れかけていた存在」ということだったらしい。まあ要するにわたしにとっちゃ「血筋にいる」ってことだわな。
まあそれでも父にとっちゃ、「オレの血筋じゃない」ってことになるんだろ。でも何代か前にでもさかのぼって、そこらを見渡してダウン症だけに限らずに探していけば、誰だって全くムキズでもないと思うよ、とかは思うなあ。だから単純に、自分のすぐそばに自分にとって受け入れられない事実が発生した、ということを言葉に出してみる表現でしかないんじゃないか、とも思う。
さて夫の方。夫の父親の姉の娘。つまり夫にとっては「従姉の子ども」。肢体不自由と知的障害を伴うお子さんがいらしたそうだ。学齢期に亡くなられたそうです。でもってこのお子さんのお母様、夫の従姉も、夫にとっても夫の実家にとって疎遠な存在だったようで。だから詳しいことは全く知らないらしい。
要するに、時々聞かれる「うちの血筋にはそんな子はいない」ってのは、どこかで「いないもののようにした背景」があるのかなあ、とも思う。特に時代背景の影響もあるのかなあ、とも思う。
おととし、になるのかもう。おととしの一月に姑が亡くなったときに。葬儀が始まる少し前のタイミングの時間に、娘を連れてトイレに行ったときに。手を洗う鏡の前でひとりの女性、わたしにとっては未知の女性に声をかけられる。娘にやわらかなまなざしを向けて、そしてわたしの方を向いて。「あのう、もしかしたらあなたがSさん?」と。
え? なんだろう。喪服着たこの人。姑の葬儀に親族として出席している立場の方。この人の娘に向けるこのまなざし。あああああ、そうか、そういうことか、この人がそうなのか。疎遠になってるということだったけれど、この方にわたしのことを、娘のことを、伝えた方がいらしたのだなあと思う。
そうです、わたしです。この子はもう中学生になったんですよ、と答える。瞬時のわたしの「この人はもしかして」は当たりだった当たり。葬儀の前で時間も無くて。でもその短い時間の中で、なんか万感もってわたしたちは笑顔で向かい合って。でもって会釈して別れた。葬儀の後はばたばたで、それ以上の時間は持てなかったけれど。でも、会えて良かったと思ったなあ。