リツエアクベバ

satomies’s diary

わからないことはたくさんある

26日。運動会の代休。代休を利用して娘を連れて施設見学。場としての長所と短所。誰かにとっての長所が誰かにとっての短所になるという、どこか当たり前のことを再認。
たこぽんとこのはてながプライベートモードになってた。プライベートモードの表示に出されるアドレスに飛べば、なにやらトラブルの匂い。ふむふむ、と。とりあえず電話、「げんきぃ〜?」。
意志、思考なんぞ聞きつつ、最近の話なんぞしつつ。電話代としては安くはないが、酒飲みに行ったと思えば安いモンじゃね〜の?程度におしゃべり。
27日。ランボーを観に行く。

2008年5月27日更新分

28日。娘の特別支援学校にてPTAお仕事。自分仕切で打ち合わせ事項山盛り。打ち合わせ内容のチェックは27日以前にやっておいたんだけど。すでにやっておいてよかったと朝から思う。ランボー観てからは自分、ランボー一色。行きの車の中でフィクションの中での「ランボー」という人物の人生を思い、なんか涙ぐみそうになり。こんなことで到着後に脳味噌働くのかいな、と、いささか弱気になる。
心配なんのその、到着して打ち合わせを始めたら一気に仕事モード。この日打ち合わせたメンツも教員の方々も、朝の車でランボー考えて涙ぐみそうになってたなんてことは、多分誰にもバレるはずもなく。
29日。娘の学校にて、管理職ともろもろ確認事項アリ。一人の保護者に「ねえ」とつかまる。うちの学校のある一人の生徒の個人の事情に関してのこと。心配という名の下にわたしからさらなる情報を、という申し入れ。
「悪いけど」と強固に断る。知らなければ知らないと言えるけれど、知っていれば答えられるということではない。わたしが当事者から聞いた話をべらべらとしゃべることは当然できず、また、しゃべったからといって、そこから正確に伝わるわけでもなく、憶測推測がついていくにはシリアス過ぎる。相手は悪気無く言ったのだと思うしそう信じたいのであるけれど、「ちゃんと知ってスッキリしたいの」と言うその「スッキリ」という言葉にずっと引っかかり続ける。sukkiriと入力して「スッキリ」と出たまま「スッキリ」と入れはしたけれど。表記すればこれは「すっきり」なのか「スッキリ」なのかと、またそこにも引っかかる。
聞けば「スッキリ」するんだろうか。たこぽんと電話で話したときに。たこぽんの意志と行動に対して理解はするが、その背景全てをたこぽんと同じように「理解した」とは言えるわけもなく。電話でできたことと言えば「スッキリ」ではなく、久々に声を聞いて話したことと、「プライベートモードの許可IDにわたしのはてなIDを入れとけ」と駄々コネの裏口入学のみ。一時的なプライベートモードなのでそのうちまた開くと聞きつつの駄々。
30日。学校で委員会参加。教職員のこの委員会の各担当者、各学部代表者と、保護者から数名参加の会議。4月就任からまだ5月の末なんだけれど。もろもろ行事だの会議だのの出席が続き、自分のことを「会長です」とためらいも何もなくさらっと口に出して言っていることに、自分自身ちょろっと小さく驚き。当然そんなことは多分誰にもわからない。
午後、数日前とはまた別の、保護者についての話がちょろっと出る。「こうだからこうなんじゃないか」という種のヤツ。わからないことはわからない、と思う。そういう観点もあるかもしれないが、別の観点もあるし、数字で表すことのできない情報は解釈が難しい。子どもじゃないんだから大人として相手の選択を認めていくということかと。わからないことは多い。
31日。たこぽんとこのプライベートモード突入の要因になる動きに関する全て(と思われるもの)を、頼まれもしないのにやっと全部読了。たこぽんとこともう一個、関連するブログがプライベートモードになっていたんだけど、ここが開いたのでそこをかなりの量で読破。
ひとつの流れ、人の動き、誰かの意志決定。これだけあっちゃこっちゃ読んだって、解釈は簡単なことじゃない。ただ、ひとつのことに対してどこから何を見るかということ。そのときの「どこから」の「どこ」に関して、「ここからここまで」ということは簡単に決められるもんじゃないよな、とも思う。そんな当たり前のことを、一応の読了で再認。
ふと、数日前に読んだランボーの感想エントリを思い出す。思い出して履歴から探し出して、ランボー関連のクリップとしてひとつ追加。

【「ランボー 最後の戦場」】 - EIGABUFFの日記‐全部ネタバレ

映画にて、これがミャンマーの現状だ、という解釈になりやすいところに対して、また別の側面から見るということを教えられる文章。情報というもの、わかったような気にはなるけれど、わからないものはわからない。そういう認識をもつための情報というものもあるような気がする。自分がわかっていると思っているようなもの、そのことに対してまた疑いをもつことの必要性なんぞを思う。