まずコレ。
当事者であることは、何を意味しないか/世界、障害、ジェンダー、倫理☆
- そうなんだろうか。研究者が障害者であれば、質的心理学研究における聞きとられる側の対象者である障害者への共感能力があり、搾取する意図もないことを意味するのか。そんなことは言えないと考える。田垣は、研究者と対象者(田垣の用語に従えば「協力者」)の間にある権力性に対しては敏感であるのだが、「同じ」障害者であるから共感し合い、帝国主義的関係から少なくとも距離をとることができると言っているように思える。しかし、同じ障害者であれば同じ視線で考えることができると言うことは、あまりにも危険すぎる。なぜなら、同じ障害者であることを利用し、搾取しようと考えることだってあり得るからである。そのような単純な事実に田垣が気づいていないはずはない。だとすれば、なぜこのようなことが言えるのか、僕には理解できないのだ。
- さらに、論文中で「私は障害者だ」と述べることが、自らの立論の妥当性を補強する1つの手段であるというのも、僕には正しいとは思えない。自らの属性と自らの立論の妥当性とは、論理的には全く関係がない。自らの属性が語り得るのは、そうした属性をもつ存在や、その語りの重さを言表する*1にとどまり、それ以上のことは言えないはずである。
- *1:言うまでもないと思ったので言わなかったが、もちろん、同様な経験を有する当事者に、「自分はこんな経験に遭って、いやだった」と言うこと、そしてそれに対して「自分もそうだ。いやだった」と言ってもらうようなことは、(お互いに)勇気づけになるはずだし、そのこととここでの僕の主張とは、全く矛盾しない。
えっとx0000000000さんより悪い頭でぶっちゃけ意訳でとらえれば。「障害」を研究テーマにとらえるときに、研究者が「障害者」というカードは万能じゃね〜だろ〜よ、と。
わたしは障害児親という当事者カードをもつわけで。障害児を育てるにあたって出会っていく専門家。たとえば療育なり医療なり教育なりというところで。こういう場で「障害児親」という当事者カードをもつ人と出会うことは、多くはないがそんなにきわめて珍しいことでもない。「障害児親」という当事者カードをもつ人間は、自分が出会う専門家がこうした同じ当事者カードをもつときに、期待する部分は大きいと思う。でもその期待はあくまでも勝手な期待であって、そこでプラスととらえるものが必ずあるはずと即思いこむことは、それは過度の期待により作り出された幻想のケースもあるよ、とわたしは思う。人はいろいろだしね。
小児科医の山田真氏は、障害者親という当事者カードをもつ方なわけで。その当事者カードをもつという要素が見える著作は、わたしには興味深いものは多いと思う。ただし万能じゃない。障害児教育に対しての視点は、確実にわたしとは違うと思う。だからこの方の著作を人に紹介するときに、その部分までわたしが肯定ととらえられているとイヤだな、というのははっきり言って思う。
このエントリで出てくるx0000000000さんの論文が掲載された書籍は、購入申し込みを出しました。読むのがとても楽しみ。またこの書籍に掲載されている他の方の文章も読みたかったので。
などと思ってるところで出てきたのがb_say_soさんの11月4日エントリ。共通の当事者カードは万能じゃない、という要素ではx0000000000さんのエントリと共通。また、こと経験に関しては当事者カードの規定はどこにあるのか、との言及。この日の二つ目のエントリは、共感ということに対しての重要な要素があると思い、クリップ。
このb_say_soさんのエントリにfujiponさんが反応。
「痛みに共感する」ということ/琥珀色の戯言
僕の経験から語らせてもらうと、ある物事に対して、自分が「経験者」であることを理由に訳知り顔で「共感」を押し付けてくる人というのは、けっこう不快な場合が多かったです。
このエントリの主旨にふむふむ思いつつも、最後に引っかかる。
本当に苦しんでいる人は、「共感」なんて必要とはしていない。
彼ら、そして僕たちが必要としているのは、「私もそう思う」という「共感」ではなくて、「お前が何を言おうがやろうが、お前はそこにいていいんだ」「それでも私はあなたのことが好きだし、あなたの存在を認めている」という「受容」なのではないかなあ。
書かれている内容には全然ひっかからないんだけれど、引っかかったのは単語に関して。わたしは「受容」と並べて使う「共感」は、「傾聴」と共にあるものという概念が自分の中に確立しているのだなあと再認。ロジャーズですね。
ロジャーズのクライエント中心療法に関しての専門的なサイトはいろいろあれど。ごく日常的な視点で語っているのがKenさんとこだと思う。
受容と共感/BLOG STATION
大切なのは、相手の言葉を肯定したり否定したりしないこと。即ち、評価を加えずに、ただそのまま受け止めること。
これを、心理学では受容(acceptance)と共感(sympathy)といいます。
もちろん、これはカウンセリングなどの専門分野だけではなく、一般的な人間関係にも当てはまります。
ただ。web上の文章を読んだときに、ああそだそだそうだわたしもそうそうそう思う、というときにも「共感」という言葉は使うなあ、と。「受容」と並べて使う「共感」は、「あなたが感じることをあなたにそって共に感じる」、ということだよなあ、と。たとえばweb上の文章を読んだときに出てくる言葉としての「共感」は、「あなたの感じたことは、わたしもわたしの中で同様に感じる物を見つけることができる」という感覚で、「感」の主体が変わるよなあと思う。前者の「共感」は、自分語りが出てこようはずもなく、しかし後者の「共感」から生まれてくる自分語りは場を選ぶ。この表出のタイミングや場をまちがえると危ないとこはあるなあと思う。fujiponさんの経験のお話はそれをはっきりと物語っていると思う。
fujiponさんの経験が物語っていることは、x0000000000さんの「当事者カードは万能じゃない」を象徴していることだと思うし、その当事者カードを投げかけられている主体が同様の当事者カードを認めなければ意味は無いと思う。言葉を押しつけられてくるという感覚を与えられる時点で、fujiponさんにとってはそれは当事者カードではなかったということだと思う。
で。当事者だの経験者だのなんだのかんだのと言うよりも。こ〜れ〜はあるなあと思ったなあというのがb_say_soさんの以下の言葉でした。
自分がどうなっているのかもわからないとき,冷静に分析できないときというのがあって,そういうときにふと入ってくる言葉--それは私に向かうものではないし直接的な共感を示すものでも道を示すものでもないが--が救いになることがあると私は知っている。そういうものに救われてきたことをしっている。
追記:あなたと私は違うということ,表層が同じか根本が同じか/Say::So?