リツエアクベバ

satomies’s diary

おし!整理ついたぜ

 自分の中に入ってきた情報に感じることをぐずぐずぐずぐず考えながら、思考を消化剤にして進む。おし!おし!おし!整理ついたぜ。

障害者の暮らしの上澄みだけ、表層だけを取り扱っているようにしか見えず、なのに障害自体が話の主題として鎮座していることに虫のよさを感じてしまうのだ。
ワンクリックの過酷な運命は/兎美味し 蚊の山

 うっはっはっは、ここじゃ。リアルでも現実でも現実感でもなんでもいいんだけど。不幸話だの泣ける話だのなんだのかんだのってのでもいいんだけど。まあこのあたりの限界はあったと思う。

2007年12月11日 kameda007 書くということはこういうことか。これで感動している人たちもどうかしていると思うよ。3週間もボラしたらこの文章がどういうものかわかると思うが

 上記のブクマコメントをlovelovedog氏は以下のエントリで太字部分を作って引用されていたのだけれど。

まさか「兄の人生の物語」をリアルだと思って読む人がそんなにいようとは - 愛・蔵太のすこししらべて書く日記

 このコメントはコメント全文で意味があるのであって、この短い文字数の中から敢えて選んで太字部分で強調するようなものではなかったと思う。その上でlovelovedog氏が強調したいところを強調したとするならば。わたしが太字部分で強調したいとするならば、「書くということはこういうことか」の方だと思う。
 「書くということはこういうことか」。まあそうなんでしょう。そして読者が文章を選ぶように文章も読者を選ぶんでしょう。
 リアル、現実的、現実味を帯びた。まあなんでもいいんだけど。あの文章を選ぶ読者が何に現実を感じたかっていうと、障害をもつ人間を家族にもつことに対しての怖れだろう。
 怖いか?怖いよ。障害に出会い、障害を日常として16年たったよ。そこに結論なんて無いよ。知るということは防衛も勇気も知恵も与えるけれど、知ることで知らないことに対しての怖れが生まれることだってあるよ。なんだか仲良ししてるうちのきょうだいたちだって、自分たちが成人していくうちに、存在が関係が感覚が変化するかもしれないさ。
 でもさ、それをひっくるめて人生だ。人生なんて次に何やってくるかわからんよ。何がやってくるかわからんものに対して、こつこつこつこつやってくさ。
 でっかい体で飛び跳ねながら泣き叫んでる男の子がいたよ。そういうことがある日常の積み重ねなんだろうと思う。そこで何を思うかっていうと、やっぱりこつこつと積み重ねていってるんだろうと思う。あの子がうちの子だったら…、ってことにはわたしはもう意味は感じない。そういうことが自分の人生にやってくるのなら、それはきっとまたこつこつこつこつとやってくんだろうと思うだけだ。人生ってのは自分が欲しいとこだけくださいなんてのが通用しないものだよね。
 fujiponさんとこの、この文章の感想。

「兄の人生の物語」と「ある個人史の終焉」 - 琥珀色の戯言

 ここで「レイプされそうになった女性」というフレーズが出てくる。ほえ?と思う。なぜレイプまで飛ぶんだ?と思う。本文中は「家に上がり込もうとした」ということになってる。家に上がり込もうとしたことがイコールで「レイプされそうになった」になる。怖れるってのはそういうことだと思う。それを否定することはできないと思う。ただ。その中を生きるということをやっている人をわたしは知ったということなんだろう。
 電車の中で見かけた女の子にすすすーっとついていってしまっただけで、それもその子が下りる駅で降りただけで「未成年略取誘拐」の未遂だったかで検挙され、検挙されたことで「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し、それが行為を認めたことになり、「誘拐しようとしたんだな?」と言われてオウム返しに「誘拐しようとしました」と言ってしまった男性。こういうケースを示談にしたという話を弁護士さんから聞いたことを思い出した。その中で人生をやってく人もいる。怖れられようがなんだろうが、やっぱり人は生きていく。
 fujiponさんに、いやもしかしたらこの文章を読んだ多くの人に「レイプされそうになった女性」というフレーズを使わせるような感想を持たせたとしたのならば、この文章の書き手の意図は成功したと言えるのかもしれない。
 まあなんでもいいや。「うちは女の子だから」とかなんとかってのを言う気もないさ。怖れをもったような目で見つめられるという経験だって、まあたいしたことではない程度でも、それでもやっぱり経験はしてきたしね。そういうものはらむ「障害」という周辺で、わたしは人生やってくさ。