リツエアクベバ

satomies’s diary

感想文

「もう1人の主役」というコラムを読み始めてすぐに「これから本当の気持ちを書きます」みたいなモードがこっちに押し寄せてきて、ぶわっと涙が出てきた。「本当の気持ち」というものは、どうして口を開こうとすると涙が出てくるんだろう。そんな、自分でも知っているような感情がまず押し寄せてきた。
読み進めると、その波はすぐにおさまった。そんなものに襲われているヒマなんてないぜ、という感じ。ひとつひとつのエピソードが、わたしの前に絵のように広がっていった。
「ハンディをもつ子どものきょうだい児」という立場の子どもたちには、そのハンディの種類によって与えられる環境が少しずつ変わる。その中で、病児といわれる子どもたちの「きょうだい児」には、他のきょうだい児とは少し違うものがあると思う。それは。きょうだい児が目の前にする「死の危険や命の終焉」というもの。
はるか昔に、放送大学で受講した科目のひとつに「障害児の心理と教育」というものがあった。様々な障害別に、その障害故にもたされる心理ということが述べられていく。その中でわたしが最も圧倒されたのは、筋ジスに代表される病弱児の心理と教育について述べられたものだった。ここに該当する子どもたちは「死」というものを目の前に向き合わなければならない要素がある。そこに誤魔化しはきかない。教育側に立つ人間がもつ「死生観」も重要な要素になっていく、と。
病児といわれる子どもたちのきょうだい児にも、同じことが言えると思う。彼らは、「死や死の危険」という事実自体に脅かされる「当事者」でもあると思う。その当事者性が彼らを取り巻く状況の中でどこまで尊重されていけるか。これは非常に難しいと思う。どうしても、強い感情をもつ「親」の当事者性に巻き込まれていく。
「親」は、病児の前に出てくるあれこれに、直接動かなければならない行動の必要性がどんどんと押し寄せてくる。その中で「待つ」「様子をうかがう」時間の渦の中にいるきょうだい児の目の前に広がるのは、「親に起きているドラマ」だと思う。そのドラマの展開の強さ大きさの中で、自分がどこにどう立っているかという立ち位置を探すのにも苦労するだろうと思う。この「親」とは別の「当事者性」に対して、「親」だけで太刀打ちするのにはどうしても限界があるだろうと思う。その限界をもたされてしまっていることこそが、生死をゆさぶられる病児の「親」の当事者性とも言えるのだから。
「ハンディをもつ子どものきょうだい児」の心理研究の中で、「罪悪感」という言葉を見たときに。わたしは息子に「罪悪感」について尋ねた。けっこうドキドキした。息子はこっくりと頷いた。「罪悪感をもっている」と。この、彼が頷いた「罪悪感」について、まだ小学生だった彼はうまく説明しきれなかった。でも、「罪悪感」という言葉にはすぐに反応したんだ。姉には障害があるのに自分には無いという罪悪感なのか、姉の発達を追い越していくことに対しての罪悪感なのか。うまく説明しきれなかった彼の気持ちというものは、本当のところはよくわからないと思う。でもあの子は「罪悪感」という言葉に反応したんだ。
生死が関わるハンディをもつ子どもたちのきょうだい児は、自分自身がその当事者性をもって「同胞の死の危険や死の事実」を目の前にする。彼らは息子よりももっと大きな揺さぶられや渦の中で、自分の中に芽生える様々な「罪悪感」に向き合うことがあるのだろうと思う。実に乱暴な言い方をすれば、特に生活上に困難がないような状態にある息子でさえ「罪悪感」という言葉に反応する。だったら彼らは尚更もっともっと反応しかねないだろうと。そういう当事者なんだろうと思う。
きょうだいの命を見送った時には、彼ら自身が当事者として必要な「喪の作業」というものがあるんだろうとも思う。そしてそれは、「親の喪の作業」に出遅れる。そこに至るまでの間に「親のドラマを間近で見ている」という学習を積んでしまっているからだと思う。
「生死の境」やら「死そのもの」というもののもつ負のエネルギーは、圧倒的に巨大だと思う。それぞれの当事者は、それぞれ自分が越えていくこと以上の余裕をもつことは困難だろうと思う。
こうした巨大な渦の中で。「わたしはここにいる」「あなたがここにいて、そしてあなたがここにいることをわたしは知っている」。きょうだい児に対してのそういうアプローチはまさに「種まき」なんだと思う。そこに蒔かれた種はきっと、その種をキャッチした土壌で育つだろう。土壌には土壌のもつ力がある。種はきっと、その土壌自身がもつ力というものを、目覚めさせていくのだろうと思う。