リツエアクベバ

satomies’s diary

親が吹き込む「毒」

高1の長男は小3の時にADHDと診断された。俗に言うジャイアンタイプの子で衝動性が非常に強く同級生のとのトラブルが多かった。
ものすごく割愛して書いてますがとにかく色々な事があり、その事について色々陰口を言う保護者が続出し、そういう保護者が続出するにつれ同級生達の長男を見る目が変わった。
まっさら/ぢゃりんこ

 わあ、ありがとうです。高一ですか、うちの娘と同じ学年ですよね、だからものすごくいろんなことを思い出した。
 娘が小学校に入学する頃。小学校の教諭をやっている友人から電話「NHKでADHDの特集がある、見て」と。かなり詳しい特集でしたね。ADHDが一般的にほとんど知られていないという前提という元で作られていた特集だった。実際一般的にほとんど知られていない頃だったと思う。
 なぜこの話になったのか。ダウン症の子を通常学級に入れることをどう思うか、と、この小学校の教諭の友人に聞いていて。この友人はダウン症児親仲間であったので「ぶっちゃけ話」が聞けると思ったから。

 教育ということで考えると、その子に合わせた教育ができないという前提の元にということがあると思う。一年生の最初のうちはいいだろうけれど、お客さんとしての扱い以上に必要な教育が、担任には見えていくと思う。適切な教育の機会を与えられない無力感はあると思う。
 そこを親がそれでも普通児集団に、と切望するならば。はっきり言ってダウン症の子はそんなに問題にならないと思う。集団行動を乱す状態をダウン症の子は作らない可能性が高い。保護者と頻繁に連絡が取り合える状況にもなるだろうからそこで話し合いながらやっていけることは多いと思う。
 それよりも。就学時検診でわからず前情報無しに、新学期のフタを開けてみたら、というところで、学級運営が難しいタイプの子が増えていると教師間でよく話が出る。その、学級運営が難しくなるタイプの子に「ADHD」という診断が出る子はいるようで。「ADHD」というものが知られていないので親が認識していない場合も多いし、教師の方でも教育の情報が足りない。

 当時の話はこんな話だった。「ADHDとはなんぞや」ということがわたしの関心を強く引くことになる。そこでNHKの特集。驚いたのは横浜市内の小学校で、すでにADHDに対する専門的な教育アプローチが通級で行われているとこの番組で出てきていたこと。今から10年くらい前の頃です。
 偶然は雪崩のように起き、その番組を見た時期からまもなく、わたしは娘と同い年のADHDの男の子の母親と親しくなる。
 「なんかすごい本が出たみたいだよ、本屋に山積みだ」と、彼女に伝える。彼女は購入し、そしてわたしもこの本を彼女から借りていっしょに読む。

のび太・ジャイアン症候群―いじめっ子、いじめられっ子は同じ心の病が原因だった
ADHD(注意欠陥・多動性障害)を日本にはじめて本格的に紹介し、全国に大きな反響をもたらした話題の本。(アマゾンの商品説明から引用)

 この本はものすごく売れ、そしてこの時期からADHDの書籍も特集も増え、一般的な浸透も徐々に進んだように思う。何を言いたいのかといえば、現在高一という年齢くらいの層のADHDの子どもは、そしてその母親は、現在に比べて情報がとても少ない頃が幼児期で、幼児期や小学生時期にとても苦労していただろうということ。
 この友人、幼児期診断を受けた頃に、同じ幼稚園の保護者に診断を受けたことを言ったと。そこで返ってきたのは、我が子が幼稚園がいっしょの子どもたちにこう言われることになったこと。
 「オマエ、頭がおかしいんだってな」。
 叱られてばかりいて、自己評価がどんどん低くなっている子どもを打ちのめすに充分だったそうで。
 親がどんなことを言って、こういう言葉に変わったのかはわからない。おそらく「脳の障害である」という一文がどんどん変換されたのではないかと思う。親がこの子のことを悪し様に言ったかどうかはわからない。ただ漠然と思うことは、子どもは、自分の親がこの子のことを話すときの口調や表情から読み取るものがあったんじゃないかと。
 学校には事前に相談をし、入学。あっという間にこの子とこの子の母親は、大人の陰口にまみれる。
 育てやすいタイプの子どもを持った人はいいさ、と思う。なんとでも言えるだろうと思う。ただ。そのなんとでも言える言葉のその内容だけじゃなく、その言葉を言う表情も本音も子どもは見てる。そしてそのまま子どもは口にする。
 子どもの障害という事実を受け入れることにとても苦しんでいた人と話していたとき。その苦しさの中にひとつのキーになることが見つかる。そのキーが見つかることで、事実の受け入れが急激に進む。そのキーとは。自分が小さい頃にちょっとした障害をもつ子が友人にいて。その子に向けた母親の差別的視線を母親のちょっとした一言で感じてしまったこと。そのことでこの友人と素直な関係が築けなくなってしまったこと。そのことが自分の中に残り続けていたことを発見する。この心の中にささっていた小さなトゲを抜くこと。これが彼女の「障害児の母親」としての出発であり、そして「親離れ」だった。