リツエアクベバ

satomies’s diary

「臓器移植」と子どもへの虐待とか子どもの人権侵害とか

わたし自身がA案可決にどうにも引っかかるのは、家族の意志で提供が可能という「子どもの臓器提供」についてなのだと思う。生前の本人の意思の前提が無い。この、どうにも引っかかるところに答えてくれているのが「7月17日更新分」にもリンクしたココ。子ども本人の権利への視点に学ぶところは多い。

森岡正博「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」(生命学ホームページ)

児童への虐待というものは、ずっと昔は漠然と「子どもに対して殴る蹴る」類のことだと思っていた。娘が生まれて子どもへの虐待というものは、もっともっと身近なものであるのだと思い知った。わたしは、子どもへの虐待という行為にとても身近なところにいたのだと思うし、これからも近いところにいるのだと思う。
娘はわたしの所有物ではない。生まれたときから彼女自身の人生が始まっている。娘はダウン症であるわけで。いいとか悪いとかじゃなく、彼女はダウン症であるということを引っくるめて彼女自身なわけで。そのこと自体を問われるようなことは、それは彼女自身の人権を侵すベクトルが始まることでもあるとも思う。そして。世間だのなんだのではなく、まず親自身がそうした人権侵害の芽を持っているということ。そのことの自覚は重要だと思う。
そうは言っても、何にもないぜって思っていた妊娠から産後、急転直下で告知だの合併症の宣告だのなんだのかんだの出てくれば、怖れも引っくるめて「まいるぜ」ってことは多い。それは「ダウン症児の親である」という共通のカードをもった仲間と越えていくことで、ダウン症児に対しての人権侵害の理由として認められるものではないと思う。親は親、子どもは子ども、それぞれ持っているカードが違う。
ダウン症児に有効であるといわれる「早期療育」。ここにも虐待の落とし穴はある。発達段階の課題に対しての過度な熱心過ぎる取り組みは、子ども自身の意志や思いを潰していく危険が潜む。早期療育というものは、「わたしはわたし」「わたしの発達の速度」「わたしの気持ち」「わたしの行く道」に沿ったものであるべきだと思う。短いスパンの効果も、長いスパンの精神的侵害の前では重要ではなくなってしまう。
合併症をもつことが多いダウン症児には、乳幼児期に検査のスケジュールがたくさん組まれることが多い。果たしてその検査は現在のその子の状態に必要なのかどうかという視点をもつ必要性、もたない危険、というものはあると思う。

  • 娘は脳波の測定は未経験。幼児期に「必要な検査スケジュール」という感覚で当時のダウン症であることに関しての主治医に相談。その回答は「このお子さんの現在の状態で脳波の検査の必要性は感じられない。親の安心というだけで脳波の検査を受けさせられる子どもの負担やストレスをどうとらえるか、どう考えるか、まずはそこを考えて欲しい」。目から鱗。この話をダウン症親仲間の友人に話すと「ウチの子は早い時期から難治性のてんかん発作の出た子ども。なかなか改善しないから検査スケジュールが立て込んでたり、検診が多いのも仕方が無いと思う。ただ、その検診時にいちいち指の長さだの手の長さだの足の長さだの関節の長さだの、なんでそこまで?というような計測がある。(それはウチの子のどうのってことじゃなくてダウン症児研究みたいなもんで、ウチの子は研究材料にされてるんだろうな)と思う。でもいっちいち押さえつけられてわけわからん計測を物みたいにやられるウチの子のストレスってのはそこでは考えられてないよね、ってのはいつも思うよ。ダウン症で高名な医師が主治医ってとこでくっついてくるオマケだって我慢してないとやってらんないってとこはあるよ」と。強く記憶に残る話。

親としての人権侵害。これは自閉症児の父親である野沢和弘氏がものすごくわかりやすい例をあげて話してくださった。要は「お世話になっている方」の不注意で、子どもが痛い思いをしたと。謝罪する相手に対して「いえいえ、この程度のこと、お世話になっていることに比べたら」とへこへこしてしまったと。その後で。おお、痛い思いをした子どものことはどこにいくのか。自分はこの子の代弁者なのではなかったか、という話。ふむふむ。このあたりは常に常に陥りやすいことで、しかも学校卒業後の福祉の世界にゆだねていく場合は可能性がてんこ盛りだ。障害者虐待で有名な水戸事件も、発覚が遅れたのはこの「お世話になっている」という部分が関係したのではないか、という話。

ダウン症児の知的能力は千差万別。コミュニケーションに関しては、コミュニケーション手段の能力に大きな差があるけれど、元々のコミュニケーション自体の能力は低くはない場合が多い。聞くべきことは聞く、聞けるべきことは聞く手段を探す。答えを見つけにくい問いに関しては、判断にチョー慎重な姿勢が必要ということ。
そんなところに比べりゃあさあ、乳児は別としても、普通の子どもの臓器提供ってのに対して「自分が拒否するか提供するか、ドナーカードを持つかどうか」なんてことは説明可能だよなあとも思う。A案可決なら「家族の同意」と家族に全部放り投げないで、子どもに対してきちんと「あなたには拒否の権利も提供の権利もあるのです」って説明することをきちんとやって欲しいと思う。知らんところで親に勝手に決められるってことだけが成立しているのは、なんかこう、オトナきたねーよ、って感じがあるなと思う。
ってなとこで、すでに存在している小中学生用教材を見つけました。中身に関してもネット上から閲覧可能。

移植医療について学びたい「絵本リーフレット」/(社)日本臓器移植ネットワーク

この教材に、子どもの長期脳死の情報と、それから「臓器移植関連法案改正についての日本小児科学会の考え方  日本小児科学会 | 最新情報」に書かれていることもわかりやすく話す必要はあると思う。「小児科医」は、子ども自身が風邪だのなんだので常に目の前にしている「自分のお医者さん」。「自分のお医者さん」たちが集まって話し合った話も、子ども自身にとっては重要な情報。
まあとにかく、子どもに話すときには「脳死ってのはすぐ死んじゃうからすぐ死んじゃうから」ってのを強固に打ち出さないで欲しいよね、と思う。だってそれ、わからないから。すぐ死んじゃうかどうかわからないから「長期脳死」って問題が浮上してるんだし、そこ伏せて話すのは卑怯だと思う。