リツエアクベバ

satomies’s diary

「わたし、男子校出身です。」

わたし、男子校出身です。

日曜の朝、サンデージャポンを見ていると、ゲストとしてよく出てくる女の子が椿姫 彩菜だった。番組内のコメントでべたついた話し方で「わたしたち女の子は」みたいな、女の子カテゴリーの発言が好きな女の子という印象だった。「わたし、男子校出身です」という著書があるということで。男子校出身という言葉を、なんかこう簡単に人の興味を惹こうとするキーワードみたいな印象も持ってた。
急にその本に興味を持ったのは、サンデージャポンの中で、彼女の親が彼女が彼女であることに対しての受容に苦労したという話から。自分が自分であることを受け入れてもらえないこと、我が子に対して、その子がその子であることを受け入れることが難しいこと。そのことにぐぐっと関心を持たされて「読みたい」と思った。
で。読んだ、と。
ばばばば。一気読み。おもしろかった。読み進めているときに、ぞわっと鳥肌が立ったのがこの部分。

ある日、家の二階の部屋から降りてきた私を見て、ママが突然言った。
「あんた、キモイのよ」

(「わたし、男子校出身です。」P.108より)

この本の中には「ママ」という単語がかなりのパーセンテージで出てくる。自分が自分であることを母親に受け止めてもらえない。いろんな感情を説明しながら、いろんな色を持って出てくる単語「ママ」。たった一人に受け止めて欲しかったということ、それが読んでいてどんどん伝わってくるのだけれど。
母親は、彼女の個性に対して早くから危機感をもち、彼女を男にしようと格闘するような子育てに見える。そこで、思い通りにならない苛立ちを凝縮したような一言だと思った「あんた、キモイのよ」。
母親は、薄々気づき始めていて、そして認めたくなかったんだろうな、と。自分の努力によって「治せる」と思っていたんだろうな、と。そしてそれは「自分に対しての強烈な否定である」と我が子に突きつけられていく。つらかっただろうなあと思った。ああ、陳腐な言い方だなあ。でもホントにそう思う。つらかっただろうなあ、と。
そして、彼女が手術によって肉体を自分の意志によって変えていくときに。性同一障害の診断書があれば自分の名前を変えることができることを知る。男らしい名前を棄てたい、新しい名前が欲しい。その名前をママにつけてもらいたいのだ、と。ぎゅうぎゅうとお互いに否定しあった母子。それでも子どもは母に向かって手を差しのばす、わたしはあなたの子どもだと。まあなんつーかなあ、子どもってものが親に対して渡してくるものは、計りしれないよなあ、と思う。
命がけの手術が終わって、自分が自分で選び取った「性」をもって両親と祖父母や親戚に会いに行くシーン。そこにあるのは一人の子どもを子どもとしてそのままに受け止めるということ。ここにたどり着くまでの壮大な物語としての一冊という感想。
さてうちの坊や。この子は男の子っぽいこともありはしたけれど、でも「男の子」としてはなんだかヤワなタイプの男の子で。「もっとしっかりさせないと女になりたい男になったら困るだろ」と、幼児期に姑と義妹に何度も言われたことが実はアリ。仕方ないってことになってはいつつも、やっぱり上の子がダウン症だったことをそれなりに引きずってて、それで下の子に対して期待が大きいってことから出てくる言葉なんだろうな、なんてことを思ってまして。だってコイツ、ヤワなだけじゃん、みたいな。
その上で、(いや、「なる」と言っても「なる」んならもう「なってる」だろ、「ならない」んなら「ならない」だろ)と実はこそっと思ってた。一人目の子で、(その染色体だってこっちの思い通りになどならんさ)、ってことを経験していての2番目だったので、もうなんかなんでもかんでもなるようになりゃいいさ、と思ってたとこアリ。
結局うちの坊やは男の子として生まれてそこに根本的な困難は無かったのだけれど。困難無くてよかったと思うのは、「命がけの手術をもって自分を獲得する」、ってことをやらなくてよかった幸運だと思った。「命がけの手術でその後の生を獲得する」って子のかーちゃんになるのは、もうホント最初の子の大手術ってときのたった一度でこりごりですわ。