リツエアクベバ

satomies’s diary

忘れられる存在になることも、ひとつの目的

 「要するに、だからなんだよ、という話」という、非常にへんてこなタイトルをつけた文章は、はてなブックマークからのアクセスに加え、RinRin王国の19日更新分にリンクされ、この文章めがけてやってくるアクセスはものすごいことになった。まあ、要するに、本文中の「あのね、たかがそれ、部分だから。」ってのが注目を引いたんだろう。あるよね、コレって。
 で、その「あのね、たかがそれ、部分だから。」ってのの、たまたまの自分の例。その具体的な一例、なんてのがコメント欄に長々と記載されていくことになった。
 コメントを引っ張ろうって流れは仕組んでない。生まれたのは自然な流れ。例を出すために出した話が共感をもっていった。そうか、と思う。わたしの手にあるものは渡してあげるよ。
 このコメントレスを丁寧に読んでいけば、「人物像は作ってないけど、でも流れってのは作ってるから。嘘はついてないけど、計算はしてるから」なんてのの一例、わたしの具体的マニュアル、みたいなものが見えてくる。
 必要と思われる対話。それがどこにつながっていく会話というものにすべきか。そのための計算、ってのはあるよ。自己満足に陥っちゃいけない会話、なんてものはあると思う。話すより話させる。話しながら発展を作る。それは時に必要な作業だと思う。
 その作業は現在進行形でバレてはいけない。そして相手がそこでゆっくりと自分が手にしたもの。その次の流れを記憶として残していく。この、次の流れというものの記憶が重なり強くなり、人間に力を与える。最初の流れ自体はいずれ忘れていく、そして忘れていくようなものじゃなきゃならない。そういう流れに仕組まなきゃならない。なんてことを思う。最初の流れの糸口を支援した人間ってのもまた、いずれ忘れられていくようなものにならなきゃいけないんじゃないかな、なんてことも思う。
 相手の痛みが薄れていったなら、その相手の痛みの記憶ってのも、自分の中からいずれ消え去った方がいいんじゃないか、なんてことも思う。そんなことをしつこく誰かに覚えられてる、ってのも、あんまり居心地いいもんじゃないと思う。だから忘れられなければならない。だから、流れは気づかれないような自然を装いながら、そっと組み立てる。いつかその人が、しあわせな生活の中で、自分が最初に感じた痛みの強さってものを、忘却の彼方に投げてしまえる日のためにね。