むかしむかし、あるところにジェニーという名のお金持ちのおうちのお嬢さんがいました。ジェニーは素直に育ち、その魅力から、年上のお金持ちの男性に結婚を望まれました。しかしジェニーは若い情熱にあふれた牧師を愛し、両親の反対を押し切ってその牧師と結婚し、家を出ました。お金持ちのおうちの跡取り娘だったために、反対された結婚を押し通したジェニーは、生家の家族とは疎遠にならざるを得なくなりました。
反対を押し切ってした結婚で、生まれた子どもは次々に亡くなってしまいました。末っ子として生まれた女の子は、疎遠になった生家の家族を思い、ジェニーの二人の妹の名前をミックスして「パレアナ」と名付けられました。この子は死ななかったのですが、その子が幼児期にこのジェニーはこの子を残して死んでしまいました。
お金持ちの家で跡取り娘として育ったジェニー。そのジェニーと結婚した牧師。自分と結婚したために貧乏で苦労の多い生活をさせ、そして病弱だったジェニーは死んでしまった。生まれた子どもたちも末っ子を残してみな死んでしまった。夫であり、父親であるこの牧師。生きるということで現れる苦難を乗り越えるための希望。牧師はその生きることの希望を託すように末娘のパレアナを育てた。
しかしこの牧師も死んでしまった。たったひとり残ってしまったパレアナ。
これが「少女パレアナ」という物語の、パレアナ登場までのストーリー。
どんだけツラかったんだよパパパレアナ!
(少女パレアナ/CROOK )
まあまったくもってその通りで。
「少女パレアナ」は、このひとりの少女がどうだのこうだのってことではなく、人間がパレアナカードをもつことによってどう揺り動かされていくか、という物語なのではないか、と思う。自分にとってのパレアナカードについて考えること。これがいわゆるパレアナ思考とかパレアナイズムとか呼ばれるものなのではないか、と、わたしは考える。そのパレアナカードを作り出したひとりの男性の痛みなんてものなんぞにも、わたしの関心はいくわけです。
「パレアナ」をとらえるときに、きゃらきゃらとポジティブにいくぜ、ってことではないのだと思う。生きてりゃ苦難というものは降ってわいてくる。そのときにその苦難をどうみるか。「ピンチはチャンス」という思考。なにがそこにあるのか、なにをそこから拾い出していけるのか。
そのときに拾い出したものを見つめながら、これを手にできてよかったと思えること。そこに到達できるためには、パレアナカードというものは実に有効に働くのではないか。そしてそこに到達できるためには、無理矢理作り出した「よかった」を探し出すことは、本当に拾い出すべきものを手にするためのトレーニングとして作用するのではないか、なんてことを思うわけです。
「パレアナイズム」と検索をかけ、ある文章と出会う。
1913年にアメリカでひとりの女性によって生み出された物語。1962年に日本で翻訳書が出版される。あと数年もすれば「少女パレアナ」という物語が生まれて100年を迎える。この物語の底力というものを思う。
そしてこの物語の底力は、読む人が脈々と成長させていくものなのではないかと思う。