リツエアクベバ

satomies’s diary

↑のコメント欄から

 コチラのコメント欄からの発展。「チャレンジド」という言葉に関しての自分の考えという話。 
 元記事で言っていたのはこんなこと。

どんな風にこの言葉を解説するか、とらえるか、ということをもってしても、がんばらなければならない人、という印象を持たせることに対してのマイナスの感覚を、わたしはこの言葉に感じるところがある。
(用語もろもろリンク集)

 ここんとこ何度か出している以前の職の話、日本語教師ってのをやっていたというもの。このときに思ったこと、学んだこと。言葉というものは多数が決定していくものだということ。
 たとえば配偶者をさす言葉。「ご主人」「主人」という言葉にどんな考えを持っていても、配偶者を指す言葉として一般化されているものならば、外国人に対しての日本語教育ではそう教える必要があるということ。外国語学習は文化を学ぶ要素というものが含まれていくということがその理由。教える相手の主観を学ぶものではない。「あなたのご主人」「わたしの主人」という教科書の例文に抵抗をもっていた人は多かったけれどね。でも日本語文化としてその使用例が多数ならば、という前提が言葉というものにはあるわけで。
 その前提で「チャレンジド」という言葉を見ていくと。「チャレンジド」とカタカナ表記にしたときに、そこに日本語の感覚の要素が入っていくわけで。日本語の感覚の要素が入っていくときに、日本語の文法ではない「ド」に関して、その意味はその言葉の解釈からは自ずと薄れ、「チャレンジド」と聞いたときに「チャレンジ」という言葉の意味の方が強く入ると思う。
 そして日本語で「チャレンジ」という言葉は、「がんばる」「がんばれ」という意味合いが入ると認識する人間が多数派を占めるのではないかと思うこと。
 だから「チャレンジド」という言葉が生まれた背景やその意味合い、その言葉にどう思うかということをもってきても、言葉としての一人歩きから生まれてしまうものの方が、わたしは大きいんじゃないかなあ、と思うということ。
 そして「挑戦」ということを言うならば。常に挑戦という姿勢をもっていくことが必要なのは、障害というものの周囲の人間であり、そこを認識させられた実感があるのは、’80年の「WHO国際障害分類試案」(ICIDH)の中の「社会的不利(handicap)」という概念だった。もたらされるチャレンジは周囲にあるという認識。
 だから、障害をもつ人をさして「チャレンジド」とするのは、わたしにはしっくりこないと思う。それでもこの「チャレンジド」という言葉をどう考えるか、という話を聞くのは興味深い。また、三者の個性が出ていく会話になっていることも興味深く、邪魔せず見てるという選択を取ったという展開。