リツエアクベバ

satomies’s diary

なんとなくつらつらと

 3/28あの日あの時/あんたジャージでどこ行くの
 これを読んで違和感をもったこと、じゃあ、なんで違和感なのかってことを、全くの私見でつらつらと。
 暴力、というものが実際に行われなくても、精神的な暴力が日常的に行われる家庭。これを知っている人と知らない人とでは、全くの価値観の相違、というものがあるんだと思う。
 実際、わたしはとても困ったと思ったことがあった。第二子を生むために、第一子を連れて実家に二週間ほど滞在の予定だったときのこと。この程度には「普通の家庭」だと思っていいのだとわたしは思っていたのだけれど、それはとても甘い自覚であり、わたしは「胎児が危ない」という状態になり、出産予定日数日前に、後先の計画もなく実家を去った。
 「父親とうまくいかなかった」というのが理由。しかし、家庭内で起きる精神的な暴力というものを実際に知らない人には、簡単に「無謀な行動をとるアンタの我が儘」と解釈される、いや、されたわけで。事細かに説明をするのも虚しく、興味本位に「ええ!」などと驚愕されるのもめんどくさく、「そんな事態が理解できないということは、あなたがしあわせな家庭しか知らないということだ」と、曖昧に答えたことが数度。
 具体的な記述はあまりにも恥ずかしいので省くけれど、例えばため息、さげすむような冷たい視線、舌打ちの数々。つまらないことに対しての怒声、罵声。これはわたしが「出産を控えて母親に大事にされていい気になっている」という彼の解釈に対しての「制裁」。
 DVもモラハラも、社会がどうのなんて関係無いと思う、私見で大胆に言うが、たいがいは子育て、さらに言えば母子関係の失敗だと思う。「棄てた」か「溺愛した」かのどちらかなんではないかと勝手に思う。
 3月3日に入れたDV映画を観た話「テレビで映画」。この話の中では、最初に顔が腫れ上がるほどの状態で殴られたときに、主人公はその腫れ上がった顔のままで夫の母親に会いに行く。その顔を見て「まあかわいそうに」と言ったすぐ次の言葉が、「あなたあの子に何を言ったの?あなたあの子に何をしたの?」。こうした絶句は、DVの被害者にとっては既知の要素がある人は多いんじゃないかと思う。これは溺愛パターンになるのか。
 食事中にいきなり怒鳴り始めた、食事の寸前に殴られた。こういうパターンのときは大元になってくるのは「何を食べたか」ということ。こうした人物に全く縁が無い人には理解不能なんじゃないかと思う。わたしは「殴る男」を配偶者にもつ友人が、この「食前に殴られた」という話を始めたときに、間髪入れずに聞いたこと「アンタもしかしてパンを食べなかった?」。答は「食べた」、しかも家族はご飯の夕食で彼女だけが「余ったパンを食べた」という展開。
 何故殴るのか。実質でも精神的にでもどういう区別をすればいいのかわからないが、「母親に棄てられた男」は、「家庭というものの夕食の姿」に異様に固執する。「正しい日本の夕食」の光景を重視し、「鍋料理」の団らんのイメージを好み、夕食に家族の献立がばらばらだったり、ましてやパン食が混ざるなどということは許されない。それを壊されて「被害者」になった人間が加害者として変貌する、そういう図式。
 子どもに対して、ごく普通に、愛情が成立したときの距離関係を教える。これは正常な精神生活を送るために必要不可欠なことだと思う。この距離関係を教えるというときに何らかの障害が生まれたとき、その先の人生の中で被害者が生まれていく。
 わたしは父の実母に対して、申し訳ないけれど「おばあちゃん」などという感覚は持たない。その人生をもってして、息子に対して加害者の要素を与えていった女性だ、と思っている。
 家庭内で行われる暴力は、たいがい生活が始まってから起き始める。これは「ウチ・ソト」という関係の中の位置づけが大きな要素を占める。実際わたしは「ソト」、つまり「嫁いだ娘」という位置に存在する場合は、至極「安全」なのであるわけで。
 生活が始まってから暴力が開始された場合、「脱出する」か、「共生」するか、の二者択一になっていくのだと思う。「脱出」も「離婚」も、たいがいは難しい。「共生」の場合は、危険回避のための「生活術」にたけていくというのが一番自然なのだと思う。夕食の光景だのなんだのと、ちょっとしたことに潜む「地雷」に詳しくなり、その「地雷」を踏まないようにすることが「自衛手段」として発生するのだと思う。殴る男、精神的な暴力が出てしまう男に対して、成人してからの「教育」の方法をわたしは知らない。