タイトルはハイジ。
いや、下記エントリを自分で再読なんぞしながら、もそもそもそもそ考えたりしてまして。
「教育」ってなんだろね、と思う(8月26日更新分)
もっと極端な少年犯罪ってことでは、以下の本は読みでがありましたよ、ってとこなんだけど。
たださあ、家庭環境ですふむふむ、なんてとこは、要するにまあどこかわかってるわけ。でもね、子どもには家庭環境を選べないってとこもあるわけ。それでもって、人はヨソんちの家庭環境にそうそう首突っ込めないってとこもあるわけ。だから、まあ機能としてうまくいってない家庭環境の中に「置かれたまま」になる方が多いと思うというか、子ども。
ここで膝ぽん、と。おお、アレだアレ。つつーっと飛んで「記事一覧」開いて過去エントリを検索。検索ワードは「暴力」っと。
♪おしーえて、オニーサン おしーえて、オニーサン。おしえてー、はてなーのNC-15♪
へへっ、最後が変。
この「オニーサン」、転機転機で自分で改革立ててるのよね、周囲の力を自分の中に取り入れながら。家庭が機能してるわけじゃない。
だからわたしの中に生まれる疑問に対して「ねえ」を言いたくなるんですが。
- 暴力というものが、犯罪の線に行くかどうか、悪質の線に行くかどうかの境ってなあに?
- 「強いものに対しての反抗的攻撃」と「弱いものに対しての鬱憤はらし的攻撃」。後者の発生のポイントをどう考える? それと「発生させないための条件」ってのはどんなことだと思う?
- 「成績はよかった」ってのが出てくるんだけど、もし「成績がよかった」ってのが無かったら、どういう風に差が出てくるの?
- NC-15のエントリって、時々「支援的な思考」を感じることがあるんだけど。だから「障害系ボランティア経験」ってのが出てきても、あんまり驚かないとこはあるんだけど。その「支援的な思考」ってのが生まれてくる発端ってのはなあに?
以上、公開質問、よろしく!