リツエアクベバ

satomies’s diary

しつこい二人

さらに、「「ありがとう」攻撃」!!そりゃ、人と人との関係性の中で、「ありがとう」と言うときだってあるだろうし、別に「障害者はありがとうと言うな」とかとは思わない。また、「ありがとう」って言ってもらえたら、誰だって嬉しいだろう。でも、それ以上でもそれ以下でもない話だ。「障害者に介護して「ありがとう」って言ってもらって嬉しかった」と喜々として述べるということは、言外にそれ以上の意味を含むのである。障害者は介護者を嬉しがらせるために存在するのではないのだ。ただ単に生きるのに介護が必要、それだけのはずなのだ。
障害者は介護者を喜ばせなければならないのか/世界、障害、ジェンダー、倫理☆

っていうのは、もし「言外にそれ以上の意味を含むの」なら、それは、支援しなければ「障害者」というものは「障害者」足り得ないと言うことだろうか。
支援者の語る「ありがとう」っていう障碍者の言葉って、外側での人には語れない《意味》を内包してないんだろうか?/かへる日記 (FRGFRG304)

 えっと、わたしはそっちの方向ではとらなかった。
 わたしは娘が生まれるまで自分が障害児の家族になると思ってなかった。まあたいがいの人はそうだと思う。なってみてわかることは、その生活の中には案外というかかなりというか、非常に「普通」な日常がある。
 ただ。時として人はこの「普通」にしておいてくれない。そんなたいしたことでもないことにさえ「ちぃちゃんがんばってるわね!」と、そんなことを言われてポリポリしたりする。見守ってくださる方、ありがたい存在、というのは前提にはあっても、娘本人が運動会の徒競走を「自分に声援が飛ぶショー」だと解釈し、その解釈が定着していくのを感じながら、(マズいんじゃないか…)と思ったことがあるのも確か。(完全な分離教育の場に移ったら、この要素は改善)。
 障害をもつ人が出てくるドラマ。たいがい早いよね、展開。感動と感動と感動と、そうやって感動を仕込まれたシーンの構造という設定がある?そしてそれを見る人にあらかじめ「感動のスイッチ」が準備されてる?と思うことも少なくない。また、構造を構成する「感動」シーンに現実的には辻褄が合わないことがあったりする。感動前面現実後回し。
 本当は。人は障害を認識し、そしてそれにどこか慣れる日常ってのもある。支援を必要とすること、そのこと自体が日常としてあるとも思う。人に頭を下げなきゃいけないときもある。ごめんなさいでもありがとうでも。そこにあるのは連続した現実の日常の線。
 支援者という立場は、支援者という立場を選び取ることも継続していくことも、そしてやめることもできる。でも被支援者という立場はその立場を下りることはできない。
 「ありがとう」を言うときもある、「ありがとう」を言えないときもある、「ありがとう」って気分じゃないときもある、「ありがとう」を感動のテンションで期待されるときもある。その全てを「普通に」受け止めてくれますか?
 「『ありがとう』は充実感です、しあわせです、だからこの職を選びました!」って、目をキラキラさせて目の前に出てこられたら。え〜、最初に思うのは「わたしとあなたは初対面、ですよねえ…」ってことなんじゃないかと思う。でも期待されるものにのってかなきゃマズいんじゃないか、とか思いながら。
 福祉職の収入保障は。だから必要だと思う。生きがいいっぱいで目の前来られて、その職の収入保障が低レベルで「生きがいモチベーション」に頼るところが多かったら。その手を借りるときに「生きがいモチベーション」に支援される側が縛られそうで、ちょっと、ツライ。いつもいつも、その「生きがいモチベーション」に応えられるわけじゃない。
 なんてことは、実際の福祉職に携わる人でわかってる人は多いと思う。でも「生きがい出発」をことさらに前面に出されたら。そんないらだちはx0000000000さんのエントリに、そしてそのエントリタイトルに感じたなあと思う。
 と。結局ngmkzさんのエントリにのっかる形になった。まあなんてしつこい二人。x0000000000さんは回復したはてなトラックバックの機能により、わたしたち二人からトラックバックを連打で受信。(またオマエらか…)のため息が聞こえてきそう。