リツエアクベバ

satomies’s diary

ちょいともろもろ

7月14日更新分

誠天調書nni's blogで被リンク。
誠天調書のコメントはおもしろかった。でもってnniさんとこのコメントがおもしろかったので引用。

nni's blog
just info. 拾い方が難しいんだけど、三者(↑2人+fuku33さん)三様の見方で面白いなーと思ってpickup
誰も間違ってないと思うけど、私からすると「世間一般の基準」(って何だとかまぁそういう堅い話はおいといて私の感覚論)から一番離れてるのはS嬢さんかな、と思う。あ、否定してるわけでも、けなしてるわけでも、悪いといってるわけでもないです。
もし可能ならば、お二方のいう「うまくいっている(ように見える)ケース」のところにfuku33さんがヒアリングしてもらったりするといいなぁとか。ユーザor雇用者視点と、経営者視点のギャップみたいなものがあるのかどうかが興味あったり。

で、このあたりはyumizouさんのブックマークコメントと共通性があると思う。

はてなブックマーク > いろいろ紹介 - S嬢 はてな
yumizou 「障害者ブランドのパンやお菓子」は「美味いよ」ってのがもう当然の認識なのかと思ってた。だって美味いもん。」私にとって当然の認識ではないな。どこにお店があるのかも知らない。イメージとしてはおいしそう。

わたしの周囲では、「あそこが美味い」ってのは、だいたい地元では浸透しているというところはあると思う。その地元の人が自分の地元の「店」で「美味い」を実感して、二軒目との接点があったときに「あそこも美味かったからなあ」というのにつながっていると思う。
つまり、一店目が二店目のイメージを作っているところはあると思う。そこで二店目で失敗したらかなりヤバヤバなところはあると思う。二店目がこの先、まだ遭遇しない「障害系の店」のイメージを背負い、一店目がどんなにうまくても「個別の例外」として存在してしまう。これが障害系の店の持っている要素だと思う。一店の失敗は非常に痛い。それはマズいもん作って売ってるとこには考えて欲しいことだとも思う。自分とこの失敗だけという次元では済まなくなる、という要素。
また、「知らない」という場合、それとわたしの出したエントリに対して「ちょっとズレてないか?」という場合は、それはその方の地元のこうした施設が商品力またはマーケティングに失敗しているということなんではないか、とも思う。
わたしの知っている限りという狭い範囲の感覚で言えば。「美味い」評判の立つ地元のパンだのお菓子だのの店という場になっているところは、たいがい子持ちが出入りしやすくなっているところがある。つまり家庭というバックを背負った人間がすっと入りやすいところの立地というか。パンとかお菓子とかじゃないんだけど、天竺堂さんとこのカフェもこの層が入り込んだという記述をそういえば見たなあとも思う。この層はうまけりゃ必ず口コミる、そしてそれは地元に流れていくというところがあるようにも思う。
あとfuku33さんの使う「正義商品」という言葉。

行き詰まっている障害者ブランド/福耳コラム
「障害者がつくった」ということにこそ意味がある、記号商品、その一種の正義商品

わたしはこの「正義商品」という意味合いをもって商品を売ったことがある。
ウチの家を建てるときにお世話になった地元の工務店がある。その工務店は夏と冬に季節の挨拶に来る。そのときに冬はカレンダーをもって、そして夏は「ちょっとした小物」を持って来る。
ウチの家を建てたときの社長は亡くなり、新社長は二代目の30代の男性。この方には営業のときからお世話になった経緯があり、季節の挨拶のときにはちょこちょこと玄関先で話をする。
ある夏の日、渡された小物をじっと見ながら社長に聞く、「ゴメン、ぶっちゃけコレいくら?」と。そして「ちょっと待ってて」と言って家の中からごそごそとある作業所製品を持ってきた。
「コレも同じ値段で入手できるんだけど、次、コレ使ってみる気、無い?」
提案した理由として、わたしはこの商品とこの商品とが堂々競争に並べると思ったから。商品の完成度としては渡された商品の方が上ではあったけれど、家庭で使う小物という意味合いでの競争として、わたしが出した作業所製品の方が上ではないかと思ったから。ちなみにその作業所製品を作成販売している作業所にはつきあいはあるけれど押し売りしなきゃいけないほどの義理は無い。
社長は商品を見た途端に「連絡先をプリーズ」とわたしに言い、その後その社長とその作業所の代表との商談は成立。次の夏のご挨拶にはその製品をもって社長は挨拶に来られた。
商品として認める、そして。それを「会社の季節の挨拶に使う」ことは、会社のイメージアップにつながると、それは考えたと思う。だからこの場合は「正義商品」としての意味がそこにはあると思う。でも、商品力あってこそのものだとも思う。会社のイメージアップにつなげるためには「変な商品」ではあってはならないのは前提。これは実際社長も言ってらしたし。
後日談としては。この会社のお客さんの中に美容院の経営の方がいらして。「ウチもお客様へのプレゼントに使いたいから紹介してくれ」と言われて、次の商談も無事成立したとのこと。当然ここにも正義商品としての意味合いは動いたと思う。でもそれは商品力あってこそのものだと思う。
商品は商品、お金が動くもので。「正義商品」というものはその付加価値として利用されることはあっても、「付加価値」というところを越えてはならないのだと思う。価値も無いのに付加価値をふりかざしたって、誰も財布は開かない。そう考えるのが当然の現実だと思う。