リツエアクベバ

satomies’s diary

書いて、読んで、思い出して、考えて

 自分が読んだものをアップして公開の場に持っていく。人が読むという視点で再び読む。ああ、別の側面からまたものが見える。
 そんなことが発見できるから、わたしは自分が書いたものを公開していくということを大事にするんだろう、なんてことを思う。
 昨日アップした文章を読みながら、ふと思い出す。友人と、特に酒を飲みながらいろんな話をしていた日々。酒を飲まない世代の時代も、友人といろいろな話をしていたと思うのだけれど、その頃見えていたもの、考えていたことがより明確になっていったのは、酒を飲む時代になってからだと思う。
 昨日、自分のサイトから抜粋して中抜きして引用したもの。これを明確に言い出したのは、確か22かそこらくらいだったと思う。「S教の教祖」だのなんだのと、よく言っていたなあ、と。「S教」、これは自分の名前をくっつけただけのものなんだけれど、自分は自分が信じるものの教祖である、と。「入る?」と言うと「入る入る」なんて輩がいろいろいたなあと、当時つるんでいた友人たちの顔と個性を懐かしく思い出す。
 「S教」は、自分を大事にすることと、心から笑うということを目指すということ、それだけ。誰だって自分を信じれば「○○教」の教祖になれる。基本的信頼感だの自己肯定感だのといった、心理学用語なんてのは、全然知らない頃の話。
 「S教」は、児童期の頃に作っていった「哲学」が全て基礎になっている。年齢は忘れたけれど、この基礎の「哲学」は、全て10歳の誕生日より前だったことは確かだと思う。仮説をたて実験をし実証させて「哲学」を完成させる。自分とは何か、世界とは何か、信じるとはどういうことか、といった類。成長と共に、当時の「哲学」は明確に言語化されていく。
 娘が生まれて、知的障害があると告知され、それをきっかけに勉強したくなった発達心理学。ああ、なんだこういうことだったのか、と、自分が考えていたことが学問で実証されていたことを知る。傲慢な言い方だけれど、学問で述べられていくその本質は、なんというか「みんな知ってたさ」って感じだった。
 なんてことを前置きに、「S教」で言っていた具体的なことをひとつ。それは「8時50分の時計」というもの。

 自分の経験の中で、心がその経験を解決していないものは、自分が認識していなくてもそれは自分の中に残っている。あと10分、あと10分時計の針を進めたなら、次の時刻が始まっていくのに、その時計をまるで持っていないかのように、心の奥底にしまい込み、そして何事もなかったかのようにまた別の新しい時計を動かし始める。
 心の奥底にしまい込んだ「あと10分」で止まった時計。いつのまにかこれは無いもののように忘れていく。それが心の防衛のシステムなんだろう。でも、それを忘れていると、また動かし始めた新しい時計でさえ、また「あと10分」で止まる。
 こうした「あと10分」の時計は、自分が苦しんでいるときに持っているけれど、「あと10分」とは思っていない。到達できない時刻の前で立ち止まっているように思っているだけだ。でも実はそこまでくれば「あと10分」。
 逃げることなく、この「あと10分」の時計をがんばって進めたなら、自分の中にいくつも抱えた「あと10分」の時計は一斉に動き出す、次の時刻に向かって。今、しまいこんでしまったら、また「あと10分」の時計が増えるだけだ。
 だから、今のその「あと10分」、それは苦しいかもしれないけれど、今がチャンスかもしれないよ。動かすために「聞く」という作業が他者から必要なら、ちゃんとつき合うから進めてみようよ、その時計。

 「8時50分の時計」、別に7時50分でも9時50分でもなんでもいいんだけど、なんか使ったたとえが「8時50分」だったなあ、と、懐かしく思う。これ、アナログで時計のイメージとして「あとこれだけ」ってのが見える感じ。その感じが好きだったな、と思う。
 もちろんこんな思考、全ての人にあてはまるわけじゃない。個人が勝手に言ってること。
 と、「ツッコミ」を回避しようとする一文を入れる、卑怯なシメ。