リツエアクベバ

satomies’s diary

夫が発熱

 いつも帰宅の遅い夫が金曜日に珍しく早く帰宅。早いと言っても9時頃だけれど、子どもたちがびっくり。「おとうさんだ〜〜」。子どもたちは平日に父親には会わない生活が日常。
 冗談で「熱でもあるの?」とオデコに手をやると、あら暖かい。熱いほどではないが「節々が痛い」と言う。帰路に市販の風邪薬を買ってきたと、そう言いながら飲む。この人、本当に生活が自立している、何か言うということの必要が無い、ちゃんと「大人」。
 「節々が痛い、か〜」と何気なく言うと、「何かあるの?今週」と聞く。いや今週末ではなく来週火曜日にリエんちに行く約束をしたと言うと、「ゴメンやめた方がいいかもしれない」と答える。単なる風邪だとしてもね大人が熱を出す風邪のウィルスだよ、ゴメンね悪いけど持ち込まない方がいいかもしれない。ああそうだね、その方がいいかもしれないね、とにかくこの土日の様子で結論出すわ、などと夫婦の会話。
 土、日、と、最高で37.6度止まり、たいしたこともなさそうで安心。母急逝の後のばたばたの疲れが今になって出たかな。
 土曜の日中、ころんと横になっている夫に毛布をかける。DVDでハウル、彼はまだ観ていなかったから観ようよ、と誘う。設定がごちゃごちゃしてるし酷評も多かったみたいだけれど、わたしはとても好き。そして実はとてもとても単純なお話なのよ、と彼にこれだけを事前レビュー。
 途中で起き上がって観る、ああ、多分わたしがとても好きといったのが見えてきたんだろう、と思う。「ハウル、大好き」とソフィーがハウルに飛びついて言うシーンで、彼がふわっと笑う。ああ、わたし、この顔が見たくて彼にハウルを見せたかったのかもしれない、と思う。
 わたしにとっての「ハウル」、あれは女の子の成長物語。「わたしなんか」の生活の中にいる女の子が突然の魔法でその若ささえも奪われる。それでも生きなきゃいけない、生きていかなきゃいけない、さあどうしよう、ここには自分の変化さえも受け入れるような自分にとっての受容者は存在しない、ここにはいられない、行かなければ。そして歩き出したところから彼女の成長は始まる。美醜にとらわれる感覚も吹っ飛ばし、大事なことは何かということだけを拾い上げ、自分自身の力を得ていく。自分も他者も受け入れる力が少しずつ覚醒する自信の中で花開いていき、その力は生命力にもつながっていく。
 奪われた若さが戻るかどうかなんてことは、わたしは実はどうでもいい。はい戻りましたしあわせになりました、では当たり前すぎて、どこか「夢落ち」に似たずるさを感じてしまう。
 ただ残念なのは、魔法をかけられたときの「絶望」が無いこと。「絶望」を感じないほどその日々に希望を持っていなかったともいえるのだけれど、停滞してから起き上がって欲しかったとは思う。だって人間、そこに一番底力がいるじゃないか。ソフィーはそれを持ってましたから、なんていうのは、どこかズルい。
 「60歳の少女のための映画」、わたしはこの映画が大好き。60になっても70になっても、もしも生きていたらその後もずっとずっと、好きな男に「大好き」と、少女の声をあげて飛びつく女でいたいんだ、わたしはね。