リツエアクベバ

satomies’s diary

怒涛の4月14日

4月12日に、わたしはこのコロナに殺されるかもしれんところにいるわけか、と自覚したわけだが。
冷静に受け止めながらも、4月14日に何かが変わるんではないかと漠然と期待をしていた。

冷静に受け止めていたのは、全ての動きが突然すぎて、人生を俯瞰で観た感じだった。
いや、ちがう。元々わたしは起きることが重大なら重大なほど、逆に冷静になるところがある。感情は後からくる。ああ、わたしは頑張ったのか、とか、自分が自分に教えてくるタイミングがある。今回それがいつくるのか。きっと日常を取り戻してふつうの夕飯を食ってるときかなんかの気もする。突然泣きながらメシを食うのもまたよきかな。

さて4月14日。4月13日の夜は最悪だった。どう説明していいかわからないが、「もう人工呼吸器に任せて眠りたい」と自分から告げそうなところにいた。そんな感じで4月14日の朝が来た。

4月14日の11時少し前、わたしは療養サポートの電話を受信する。夫のことで。夫はそばにいるか、今夫の電話が応答しないと。自宅療養者は細かく緊急連絡先が聞かれ、彼の緊急連絡先にわたしの携帯番号があった。

「わたしは入院しています。そばにいません。自宅の電話を鳴らしてみてください」

この電話は、療養サポートが夫に入院対応が決まった連絡をするものだった。夫は高熱が続き始め、解熱剤が配達されていた。夫の検査の検体はランダムな検査で「変異株」と連絡されていた。

「娘を置いて入院はできない、二人共の入院を」と夫が答える。
娘の事業所が障害福祉課に連絡をとり、保健所サポートを依頼する。
わたしが「この病院は満床ではないと言っている、わたしは四人部屋をひとりで使用している」と返し、その情報が夫を通して伝えられる。

何時だったか。信頼する男性看護師が、わたしのベッドに来て真剣な顔で言った。

「娘さんをここに運ぶ。あなたは絶対に娘さんの世話をしてはならない。あなたは絶対に状態を悪くしてはいけない。約束できるね?」

夫から連絡がくる。二人とも、わたしのいる病院に搬送が決まった。お迎えは「14時」。この連絡を夫がわたしに入れたLINEは「13時16分」を表示。バタバタで娘の入院のための衣類を指示。

そして病室ではベッドの準備が着々と動き、娘がきた「おかあさん!」。何もわからず連れてこられた娘が驚くのは当たり前だ。大きな声で驚いていた。わたしは「ちぃちゃん」と声をかけながら、必死にうつ伏せを維持する。コロナとの戦いで、伏せた体勢の指示があった。「絶対に状態を悪くしてはならない」とわたしに告げた看護師との約束を守らなければ。

そうやって、4月14日は怒涛の展開を見せた。そしてわたしが知らない間に、わたしの酸素投与のパワーがこの日下げられていった。この怒涛の展開と並行して、わたしの体は回復にベクトルを向けた。翌日にはこの機器のパワーは最低まで下げられ、4月16日に医師が「もう大丈夫」と告げたのだった。

わたしは。4月19日の夜、「絶対に状態を悪くしてはいけない」とわたしに告げた男性看護師と話ができるタイミングに、彼に深く礼を言った。
娘には看護師さんの指示が通る、娘はわたしが病人だときちんと理解できる。「絶対に娘の世話をしてはいけない」は、そもそも心配無用な話だった。
ただ「絶対に状態を悪くしてはいけない」と告げる男性看護師の言葉には、迫力のある愛情があった。わたしは、この迫力のある愛情に是が非でも応えなければとあの時思った。わたしはあの日のあなたを一生忘れない。ありがとう。

いやだって。そばにきたら動きたくなるだろうとか、いやだって。と彼はぶつくさと照れる。
いや、そんなことではない。根本に深く伝わる愛情がある。あなたの看護師センスは素晴らしい。その素晴らしさにわたしは大きく助けられた。わたしはこのことを一生忘れない。ありがとう。いや、マジだぜ!

翌日の4月20日、わたしは主治医と会話する機会を得て、この男性看護師の話をする。彼のあの迫力ある愛情は素晴らしかった、わたしは一生忘れない。わたしの話を芯で理解した顔をちゃんとして、主治医がわたしに言う。「共に働く仲間を褒められるのは光栄です」。

いやあなたの病状説明も素晴らしかった。情報をそのままに、誇張も省略もなく、現実をしっかりわたしに渡した。しかもわかりやすく。本当に感謝しています、ありがとうございます。
40代に入るか入らないか、もっと若いかの女医だった。自分をドクターだと言わずに来るから、最初看護師かと思ったくらいだった。マスクにがっちりフェイスシールドでみな来るから、こっちは大半誰が誰かなどよくわからん。その状況でするーっと来るものだから、今は彼女がくるとわたしが「ドクター!」と言い、彼女が「はーい」と手をあげる。楽しい。

4月14日。
半ば絶望しながらも、この日にきっと好転するだろうと思っていた。実際、そうなった。あはは、と思った。
4月14日は父の命日だ。生育歴で家庭に恵まれず、モラっ気のある困ったオヤジだった。くそめんどくさい存在だったし、怒鳴り合いなどよくやった。一時的な絶縁も経験した。
でも、不器用なオヤジはわたしを心の頼りにしていることはよくわかっていた。わたしは。わたしなりにオヤジをちゃんと愛していたよ、だから助けてくれよなと思っていた。

病室から母とメールでやりとりする。母が言った。あなたが父親が動いたと思うならそうかもしれない。ここ数日、なぜか仏壇の灰が拭いても拭いても飛び散っていたよ。おれは助けたぞと言いたいのかしらね。さあわからんね。でも、わたしはずっと感謝して生きると思うよ。