リツエアクベバ

satomies’s diary

知的障害

「あなたのお子さんは21トリソミー。ダウン症です」

ここからわたしの人生に「知的障害」というものが関わっていくわけだが。
「おかあさん、どう思いますか」によくわからんと答えたくなることは多かった。わたしは知的障害の心理やメカニズムなど知らん。わからない。

どういうこっちゃか知りたくて、娘の乳児期、まだ娘がひとりっこの頃、わたしは放送大学の受講生になった。発達心理学に関して片っ端から授業を受けた。最初はちんぷんかんぷんだったが、やがて発達心理学の主だった研究者の名前が自分の中でポピュラーになる頃、娘が丁寧な教材のように「ゆっくりと発達していく」のが理解できるようになった。

しかし、それでも、実際には、知的障害というものがよくわからん。
そしてそれは、何かが起きたときに、「ああ、知的障害というものはこういうことなのか」とわかる。
今回のコロナ感染に、また気付かされたことがあった。

娘は完全に回復して、コロナ患者の最低入院日数の「10日」を終える。わたしの回復を確認したわたしの主治医が、「母娘同時退院」の計画案を出した。「医療処置終了三日後退院」の基準を満たすために、4月20日の担当看護師は慎重に数字を見ながら判断し、時間刻みでわたしの酸素投与の量を落とし、夕刻には酸素投与を終え、その日中に「医療処置終了」のラインを敷いた。

そしてわたしが4月20日の夜「ちぃちゃん、おかあさんとおうちに帰ろうね」と言ったら、この人は即答で「いやだ」と答えた。

え? どういうこと?

ゆっくり聞き出してみると、わたしたちが壊れていく生活が「こわかった」「くるしかった」「つらかった」のだそうだ。そして病院に来て「うれしい」。ここで人に助けられたことをよく理解していて。その人たちがいない、おかあさんと帰るは、「こわい」らしい。

なんかすげーなるほどだった。知的障害というものは、基本的に情報難民な状態に放り出されているのがよくわかった。

4月21日の朝、夜勤の看護師さんが朝の検温に来た時に、わたしは看護師さんにこの話をして礼を言った。
この子は皆さんに助けられたことをよく理解している。そのことをみなさんに伝えてほしい。

わたしは、知的障害の娘を育てながらも、知的障害というものをわかっているわけではない。こうして何かが起きて理解する。それもきちんと説明した。

4月21日の8時過ぎ、主治医がわたしに退院の話をしにきた。主治医は土曜日と言い、いやちがう看護師が立てた計画は金曜日で、それに向かって計算は合ってるよ、とわたしが答える。

つまり。「医療処置終了三日後退院」。この線をどうつけるか。医師が引いた「母娘同時退院」を達成するために、昨日の看護師が綿密に時間刻みでスケジュールを作ったということで。それは確実に昨日の担当看護師の功績だった。
主治医が、そうなっていましたか。昨日中に終了させましたか。では金曜日退院オッケーです。と言う。

ああ、そうか。やはり昨日の看護師さんがすげーのか。名前を聞いておいてよかった。医師に看護師の名前を渡す。感謝していると伝えてください。

そしてそれから、わたしは主治医に話をする。わたしには知的障害というものはよくわからん。折にふれ、こういうことかと理解する。
そうした前提話をしてから、娘が「いやだ」と言った話をした。

そうしたら。この若く人間性の高いドクターは、「ご挨拶しなきゃ」と言った。

娘のベッドに行き、腰を落として視線を合わせて「おかあさんの主治医の○○です」から話を始めた。幼稚な単語を使うことなく、ふつうに大人に話すのと寸分変わらず退院を説明した。そして、それから「退院、オッケーです!」と全身で大きな丸を作った。
娘が笑顔で「はい」と答えた。

素晴らしい、素晴らしすぎる、この人。話が通じる相手に出会うって素晴らしい。ほんと、マジ、しあわせ過ぎる。

主治医にオッケー、あなたは素晴らしいと伝える。あなたが伝えようとする芯がきっちり伝わったとわたしは思う。本人の表情が柔らかくなった。素晴らしい。ありがとうございました!

医師の人間性に感動し、感謝しながらも、わたしはそっとほくそ笑む。
ふふふ、知的障害とはなんぞやという、その経験をこの人に渡せたぜ。
いや共有できるひとを増やしたいくらい、知的障害とは謎で。そしてその考察はいやけっこう、インタレスティングなものなんだぜ。