リツエアクベバ

satomies’s diary

母と半日

早朝から家族の食事の仕込み。夕食までを準備して10時頃家を出る。

ひと月ぶりに電車に乗る。新宿に向かう電車はすいていて、ほぼ一人分あけて座席に座れる状態。

幼児を抱いた男性がこちらに向かってきて、近くに座ろうとしたら。向こうから女性が走ってきた。「向こう空けました、並んで座れますから」。赤ちゃんを連れた母親が向こうに座ったようで、そちらのとなりの女性が席を譲ったということのようだった。

本を読みながら、視界に入ったそうした動きをなんとなく見ていた。向こうからすっ飛んできたその女性は、わたしの隣の空席ひとつぶんのその隣に座った。

へ?と驚いたのは、次の駅だった。一人分あけて座ることが限界になり、あちこちでふつうに人が並んで座り始めていた。わたしの隣にも、ひとが来て腰を下ろした。
そうしたら、向こうからすっ飛んできた女性が、またぱたばたっと立ち上がって移動していった。落ち着きのない子どものように、ぱたっと立ち上がってぱたばたっと電車のドアのところに行った。

なんだ?と思ってその女性をまともに見たら。初めて見たぜ、個人でふつうにフェイスシールドしてる人。
一連のこの方の行動は、全て「隣に人がいたらいやだ」ベースということみたいだった。

いやー、大変だね。と、母に話す。366人の都市にくるぜ緊張感を持って移動しているような感じだったけれど。街の大半の住人は、ふつうに暮らしてるだけなんだよね。

ビールを飲み、母の料理を食べ、ワインを飲み、母と話す。来るまでの電車のこと、最近のこと、母の友達のこと、姉のこと。父のこと、父の人生のこと、母のこと。

一人一人のことを、その人間のストーリーととらえ、起きた出来事と人間のドラマの解釈の話とか。面白かった。

母の弟である叔父が、数年前に自分が興味深く読んだ本をわたしに読めと言った。叔父が知識として納得したことをわたしと話したいということのようだった。

数年前にこの本を読んだ時に。話の内容の記憶としてあったことを、今再度読みたくて、行きの電車で読んだんだ。と、母に話す。人がだんだん弱っていくと、食事をだんだん受け付けなくなり、眠る時間が増える。舅が、眠ってしまうことがふえてきた。どのくらいのところにいるのか知りたかった。しかしこの本に出てくる「老衰死」に行き着くには、舅はまだ体に力があるようだ。

でもそこまで行かなくても、父は死んでしまったね。と、母と話す。父は死ぬ前日にほとんど食事を取らなかった。いらないと言った。そして夜眠り、父の朝は来なかった。

「行きの電車の中でね」と母に話す。父はここまで弱っているように見えなかったけれど、死んでしまったなあと。それで電車の中で一度本を読むのをやめて「copd 最期」とググったんだよ。肺が力がなくなって固くなると食堂や胃を圧迫するんだそうだ。だから父は、あの日食べられなくなったのは、父の肺の命があの日限界だったのかもしれないね。と、母と話す。

父が会社を辞めたがった時期に、自分は父の気持ちに沿ってやらなかった。冷たい妻だったと思うことがある、と母が言う。いやそうではない。確かに優しくはなかったし、無視を決め込む姿勢は強硬だったかもしれない。でも、その父の話をわたしは聞いたりしていたが、退職後のプランに現実性を感じられなかった。妻が「相手にしない」態度は、もう一度自分の今の職場に向き合うという仕切り直しをすることができた。あの時それが出来なければ、経済的に安定した老後を得ることはできなかったと思う。
「逆尻叩きに成功したんだよ。それでたぶんそれは正解だったんだよ」

今日、わたしの腕には父の腕時計があった。時計の裏蓋に会社からの贈呈の刻印がある。あのときを乗り越えたからこそのこの「贈呈品」で、この時計は父の人生だなと思う。

帰りの時刻をあまり考えなかったので、久しぶりに母とどっぷり話した。おもしろかった。母はわたしのよい友達でもある、長生きしていてほしい。

父に買っていった線香が、よいものだった。何かの折に、これを使おうと思った。