リツエアクベバ

satomies’s diary

再び「人権作文」

人権作文/2009年8月3日更新分

三種の個人ニュースサイトにピックアップされて、ものすごいアクセスになった。こうしたピックアップがあるときのいつものように、そのアクセスの波をぼけーっと眺めてた。いつもとちょっとだけ違ったのは、その波のちょっとでもいいからついでにトップに飛んでくれんかなあと思ってたこと。ついでにカレーの話を聞いていってよと思っていたこと。
このエントリのアクセスでふむふむと思っていたことは、検索によるアクセスがとても多かったこと。「夏休み 人権作文」「宿題 人権作文」「人権作文 書けない」「人権作文 きつい」。ブログペットアクセス解析の「検索ワード 語句」ってとこばかり見てた。今日現在での「8月のアクセス」での集計を見ると「人権作文」とそれに語句をプラスした検索で、驚くことに600近いアクセスを記録している。
「うんこ」という名前で記載されたコメントに関してそのままにしていたのは、この方は「人権作文」の検索から来ていたことから。悪態をつくのがいいとか悪いとかってことじゃなくて、悪態つきたくなるものは「人権作文を宿題にする」ってことの背景にはあるよなと思っていたから。レス無し放置は、そんなわたしが漠然と思ったことなんてわざわざ言われたくないだろうとも思ったから。
人権作文で不思議なのは、さあ宿題です書きなさいと放りっぱなしにしているように思うこと。こうした難しいテーマで文章を書くには、それなりに考察の時間が要るんじゃないかと思う。大元というかのサイトを見て、そういうことか(太字にしてみた)とか思った。

全国中学生人権作文コンテスト
法務省と全国人権擁護委員連合会では,次代を担う中学生の皆さんが,日常の家庭生活や学校生活等の中で得た体験に基づく作文を書くことを通して,人権尊重の大切さや基本的人権についての理解を深め,豊かな人権感覚を身につけることを目的として,昭和56年度から「全国中学生人権作文コンテスト」を実施しています。

「日常の家庭生活や学校生活等の中で得た体験に基づく作文を書くことを通して」、つまり書く生徒本人の経験に頼っているということ。ただ、経験から人権を学ぶには考察の時間は必要だと思うし、そのための教育的リードは必要なんではないかと思う。そして人権ということを考察するための教育的リードとは「こういうことはいけません」というリードではなく、自分の加害性について考察するリードが必要なんではないかと思う。
考察のための教育的リードとして、あるサイトを思い出す。「たったひとつのたからもの」の放映後に知ったサイト。

静岡教育サークル/シリウス

ここは小学生の教育のための研究サイトだけれど、こうした類の授業案に即した授業が行われていたら、たいがいの子は短かろうが長かろうが「自分自身のナマの言葉での人権作文」が書けると思う。人権という難しいテーマを考察するのに、「書き上げる結論」は重要ではないとわたしは思う。考える機会をもつ、ということが大事なんだと思う。作文はその手段でしかないと思う。
わたしにとっての差別を考える教材とは、やっぱり「ぼくのお姉さん」。これに尽きる。自分が加害に回る可能性を豊富に示唆してくれる「痛い教科書」だと思う。

ぼくのお姉さん (偕成社文庫)

「ぼくのお姉さん」は母親になってから読んだ本。この本を教材にした授業例がダウン症関連のどこかの文章に載っていて、そこで表題作をほぼ全文読み、購入。購入後に驚いたのは表題作が非常に生やさしいものだったこと。ほんわか話を表題作に持ってきて読み進めることを促し、差別意識の現実的な側面をぐさぐさと描き、最後に障害をもつ子どもの決意表明に持っていく。優れた構成をもつ短編集だと思う。
自分が小学生の時の道徳教育で忘れられないこと。授業じゃなくて道徳のテレビ。ある男の子が友達から本を借りる。宇宙の本だったかなんだったか、とにかく写真とかが鮮明にたくさん使われている類のマニアック的、小学生にとっては豪華な本。それを読む時に「間食をしながら」読んでしまう。そして、その本は汚れてしまう。返す時に謝罪するのだけれど許してはもらえない。そこでそのドラマは終わり。
これが記憶にやたらに鮮明なのは、この間食が「餅」だったこと。黄粉餅かなんかなんだよね。餅食ってて、その食ってる餅が本の上に落ちる。あわててその餅を取る。ところが餅が本にへばりつくんだよね。汚れを取ろうとすればするほど、ページがむちゃくちゃなことになっていく。その感情の臨場感たるや今でも記憶新鮮。ひたすらひたすら謝る。ここでまた記憶新鮮なのがその相手の言葉。ものすごい憎々しげな表情で「餅なんて食うなよ」。その通り過ぎて泣ける。やっちまった方、貸した方、どっちの立場になっても泣ける。「謝ってるんだから許しましょう」なんて道徳的な一文は裸足で逃げていきそうなシチュエーション。何十年経っても、餅食うたびに思い出す。答えが簡単に出ないことが重要なことってのはあると思う。