リツエアクベバ

satomies’s diary

知的障害者の搭乗拒否について

飛行機という乗り物

飛行機という乗り物は、「離陸した時点から着陸まで、機内全員が運命共同体という要素がある『命がかかった乗り物』」というところがあると思う。一度離陸したら「密室状態」にもなる。そこでその「運命共同体」から誰を排除するか、という要素が元々存在する乗り物だと思う。
そこで排除される人物としては、常識的に逸脱した行動を取る(と予想される人物)が該当するだろうし、そして、障害のある人が排除される可能性をもつ乗り物だとも思う。

障害者の航空機利用の現状と課題/障害保健福祉研究情報システム(DINF)

ここでは現状が障害別に記載されているのだけれど、その上で特記すべきは以下の文章だと思う。

こうした問題を書き出せばきりがないほど、障害者の飛行機利用には課題が山積しています。というのも航空法令や運行規定、整備規定などでは細かな基準がなく、すべて航空会社任せとなっていることに原因があります。各社が付き添い人の同行、搭乗可能数や機内での制限、電動車いすの扱いなど、独自に内部規定を拵(こしら)えまちまちに運用しています。

この「独自の内部規定」は、航空会社のサイトには記載されていず、情報や事実によって知るというところは大きいように思う。
「排除される」ということに対しての人権感覚は難しい。実際に排除された人の事情は様々だと思う。ただ、飛行機という乗り物は常に「万一」という可能性があり、その「万一」に対して全乗客の心理や混乱や安全を一手に引き受けなければならないのが客室乗務員だと思う。全乗客の数を客室乗務員の数で頭割りすれば、その負担は想像に難くない。
そこで搭乗のときに不安材料を「感じた」乗客に対してのチェックが行われることがある。それはその飛行機にスタッフとして乗り込む乗務員の「主観的判断」が影響することも大きい。突然の特に不測の事態に対しての「対応」に明確な「こうなります」ということが主張しにくい理解されにくい精神障害者知的障害者は、この「主観的判断」で搭乗自体を左右されることは起きうることだと思う。現在の人権感覚と機内全乗客への安全管理の感覚、短時間でどちらに天秤が動くか、といえば、それは後者の比重が高くなると思う。

「搭乗拒否」に関して

「搭乗拒否」の判断を該当する乗客に伝えるときに。場合によっては人権感覚と真っ向から向き合わなければならなくなると思う。そのときにどんな対応をもって接するのか。
ここにコミュニケーションの問題が出てくると思う。どう伝えるか、どう「不安材料であることを理解してもらうか」という姿勢は、わたしは必要だとも思う。
そこでその「不安材料」に関して、該当する人物の説明で納得がいく場合もあるかもしれない。ただ、「ごねられたら」ということを怖れる対応というものも出てくるのだと思う。
乱暴な言い方をすれば。「とにかくココはいったんチャラにして」というところが、搭乗拒否の対応をした乗務員には存在しないか、というところをわたしは感じないではないとも思う。これから出発する「運命共同体」からいったんはずして、自分たちはとにかく飛び立つ。後は会社に預ける、という形なのではないかと思う。搭乗を始めた飛行機での乗務員にもたされた時間は限られているということも大きい。
双方が人権感覚と真っ向から向かい合うというときに、何をどんな風にすべきなのか。そうした課題もあると思う。力の行使による犯罪者のような扱いは、つらい。

「梅田伊津子さんにお話をうかがっていただきました」コメント欄
梅田さんから離れた所で何かゴニョゴニョやっていると思ったら、いきなり警官がやって来たそうです。その際、客室乗務員から梅田さんに対し、飛行機を降りてもらうことについての説明や謝罪などはまったく無かったとのこと。
梅田さん母娘に直接交渉して降りてもらうのが面倒で時間がかかると判断し、警察側に丸投げしたようです。

「対応」の考察に関して

精神障害者への搭乗拒否に関して考察されている文章から。

精神障害者搭乗拒否問題 - コラムのお部屋
旅客係員として働いていると、精神障害の方だけでなく、養護学校の修学旅行であるとか、車椅子アスリートの団体等、様々なケアを業務で求められる。しかし、その対応はかなりの場合個々人に委ねられるため担当者間でも対応に差が出ることも多い。今回の指導の原因となった全日空旅客部の対応も、ひょっとしたら最初に対応した係員の対応のまずさから始まったのかもしれない。だが、何度も言うように、ただ航空会社の制度を変えればいい、という問題ではあるまい。国交省はおよそ内実の無い指導とやらを下すのではなく、制度改変に伴って必要となる専門家派遣等のサポート体制についても構築すべきであるし、航空会社はどの旅客も納得できるギリギリの妥協ラインについて真剣に考えるべきである。そして、一方の旅客側も「航空機に搭乗して本当に大丈夫なのか」という判断を慎重に行うべきだ。「とりあえず乗せてしまえば後は航空会社にまかせてればいいや」という姿勢こそ、最も避けるべきものである。これら3者のバランスがうまく拮抗しない限り、精神障害者の搭乗を巡る問題は決して解決されないであろう、というのが、私の結論である。

個人ブログの文章から

乗り物に対して感じること、子どもの障害の状態の現状、そしてそこで流れる気持ち。これは「読んでよ」と思う文章。
そして「飛行機に乗せた」という方の文章。

障害児と旅行2008 その1・・・初めての飛行機/障害児Kとおたく母の疾走日記

どちらも抜粋引用ではなく、「全文読んで欲しい」と思う文章。

何ができるのか

夏休みが終わった。身近なところで。中三の自閉症の男の子がいる家族が、家族で九州に行ったという話。東国原知事の顔の書いたおせんべいをお土産に出すと、周囲からすぐに出てくる反応は「飛行機に乗ったの?」。
そう、やっぱりこれはとても身近な話題。飛行機。それは障壁を感じる乗り物。
その障壁に関してどう向かい合うのか。そこで航空会社と障害者側が「対する敵という要素」をもってしまうのは、両者にとって損失なんじゃないか、とも思う。
「離陸した時点から着陸まで、機内全員が運命共同体という要素がある『命がかかった乗り物』」。そこを重要な前提とした上で、腹を割って相談できるような機関が、わたしは欲しいと思う。