この二つのエントリに関して。もそっもそっと自分の思うところをちらりと入れつつも。直接的には押し出さないようにして書いたとこアリ。
で、出すもの出したので、今度は自分の思うことを書いておこうと思う。
知的障害児の就学先選択に関しては、子どもの個性、子どもの障害特性、親の価値観、家族環境、地域特性等、いろいろな面がからみあってその材料になっていくところはあると思う。一言でこれと言えるほど正解があるものではないと思う。
娘の就学先選択に関しての重要な参考書になったのがこの書籍。
就学先を選択する時に必要な視点、どこを選んだ時に補うべきことはどういうことかということが、様々な資料を提示しながら丁寧に述べられていて「障害をもつ我が子の就学先を選択しようとする親」に対して、とても優しい視点をもった良書だった。図書館で見つけて借りて読み、その後購入。
1995年に出版された本で、今は情報が変化しているところはあると思うのだけれど。同じ著者で新版が出ているんだそうだ。どんな風に語られているのか興味深いなあと思う。
統合教育に関してはこの書籍では「普通学級主義」を否定。
「普通学級主義」とは、「子どもは授業についていけなくても、ともかく普通学級においていただくだけで結構なんです」といったものです。子どものことから出発して「統合教育」を希望するのではなく、とにかく通常の学級に在籍することのみを追い求めているのです。初めから「普通学級」へという結論があるのです。
障害児の就学・進学ガイドブック(第5章「ともに学び育ちあう教育」p.126より引用)
その上でこの書籍では「子どものことから出発して『統合教育』を希望する親」のために、丁寧な情報提供とアドバイスの記載がなされていく。
この路線に非常に納得するからこそ、統合教育について語られるものに関して「どの子も」とつくものには、わたしは猜疑的な目を向けるところはあるなあと思う。統合教育を選択する子の「どの子も」なのか、そもそも知的障害をもつ子の「どの子も」なのか、その重要なところがわかりにくい。
「分離が差別」かというところでは。子どもの障害特性によっては「分離しないことがその障害への対応の配慮を欠かすことで、必要な支援から遠ざけることに対しての『差別』」と思うところはあるなあと思う。また、統合教育はそのケースによっては「本人の障害に沿った教育を本人が受ける権利」、つまり「本人自身が学ぶ権利」を阻害している場合があるのではないか、とも思う。
分離には分離のデメリットがある。そのデメリットに対してどう「支援として」解決させていくか。その一つとして「支援に配慮した統合の選択」があるのだと思うし、また、学校生活だけではなく生活環境を見通した「分離を選択したことで発生するデメリットの解決」があるのではないかと思う。
また。将来的な成長の姿のビジョンもかなり関係してくるとも思う。能力として、また適性として、企業就労の可能性が高いという場合は、一般的な社会という環境で育つことに意義は大きいとも思う。
どちらにしても、社会から隔離して生きていくことは難しく、社会に即した生活をする能力を育てるために、分離を選んでも分離を選んだことで発生していくデメリットへの解決の視点は常に重要ではないかとも思う。
しかしそれでも一般的な正解など無いわけで。障害をもつからこそ、「個への対応という視点」が重要なんではないかと思う。そうしたことを考察する材料の一つとして、この方のこのエントリは、わたしにとって重要再読文章という位置づけになっていると思う。
Brittyさんのエントリに関しては。実はこの部分に大きく共感。要はそこなんだよな、とか思った。要望というものには共感を促す説得力が必要だよなと思う。
知的障害者をめぐるお題ふたつ (追記アリ/鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
だけれど、何を望んでいるかわからないというのは議論以前の問題だよなあ、とちと途方に暮れる。高校に入れることで何を望んでいるのか、そのことにどんな利益が子どもにとってあるのか、などを考える以前に、この要望が具体的に何を要求しているのか、わたしにはわからなかった。