坊ちゃん坊ちゃん、今週が期末です。がんばれ。がんばれってことで、お勉強があんまりおできにならない愚息のために個別指導の教員と化しております。中間ではかーちゃんだけだったが、期末では理数系担当にとーちゃんも引きずり込んでおります。
なぜとーちゃんかーちゃんそろって個別指導の教員と化しているか。それはひとえに家計節約でございます。個別指導塾は月謝が高いから。
社会は中間は地理でございましたが、期末は歴史が試験範囲となっております。古代文明や中国史なんぞ交えながら、日本史は日本の始まりから平安時代まで。台風で休校になり、一時限がまるまるつぶれた社会科の先生はさぞあせっておられるだろうと思います。木金が試験なのにまだ試験範囲全部の授業が終わってない。先生あせってると思うから今週の授業は試験問題に沿った授業しかしないはずだしっかり聞いてこい、などと大人の入れ知恵なんぞ坊やの耳にささやいております。
日本の始まりから平安時代まで、ということで。聖徳太子や大化の改新なんぞがキーになってきておりますが。「聖徳太子が中国にいっしょに行ったのはいもこ、日本の政治をいっしょにやったのはうまこ」だの、「おにいちゃんとカマちゃんがけまりの会で知り合ったんだよ、まあサッカーいっしょにやってたみたいなもんだな。で、おにいちゃんとカマちゃんが『最近生意気なソガちゃんやっつけちゃおうぜ』ってソガちゃんボコしに行ったんだよ(中大兄皇子と中臣鎌足)」だのと、我が子に対しての個別教育ならではの暴論吐きまくった教え方をしております。
しかし思うのは、中学の国語ってのはつまらんものだなあ、と。定期試験のために習った授業を理解、暴言吐いちゃえば暗記していればいいというところがあって。そしてその単元の文章の読解には普遍性が無いとこがなんともつまらないと思う。点を取るために読解を覚える要素がある。
中間試験のときに。単元で出てきた文章読解にもちろん重きはおかれているわけで。試験範囲の中で「話し言葉と書き言葉のちがい」なる章があって。それはたったの一問でそれも○×アンサーの簡単なもの。でも国語という教科を考える上で、実はそっちの方がずっと大切で、しかも学校卒業後の普遍性があるのではないか、などと思う。この単元で学習したことを記述式の問いで答えられるようにさせておいたわたしは、学校教育というものにいわば「負けた」ね。
国語といえばid:yumizouさんだろうよ、というイメージがわたしには勝手にあって。yumizouさんのブクマなんぞをのぞきにいく。
今日現在で最新のブクマは「気が置けない」について。これは1990年にわたしが受験した「日本語教育能力検定試験」で、出題として「絶対出る」とされていたものだった。
「気を置く」という言葉が「気を使う」という意味をもっていること。自分がこの慣用句を使うか使わないかに関わらず、そういう言葉の流れを学んでいくこと。おもしろいと思うんだけどねえわたしは。
アルクのサイトの「日本語Q&A」のトップページに飛び、つらつらとページを開く。日本語としてのカテゴリ研究なのかもしれないけれど、こういう方がよほど「国語教育」なんではないかとも思う。こういうものを語っていく文章の読解が、なんで国語教育に入っていかないのか不思議に思う。
この「日本語Q&A」には残念ながら入ってないようだけど「虫」ってのもある。人間には自分の意志を越えた「虫」が体のなかにいるという思想からできている慣用句が多く、「虫が好かない」なんてのは嫌いとはっきり言うのではなく「虫」のせいにする、「腹の虫がおさまらない」なんてのは自分自身は許そうと努力したとしても「虫」がねえ言うこときかないねえ、なんてとこになるわけで。こういう日本語独自の感性から日本の言語文化を学ぶってのは、国語教育にならんのだろうかと思う。
「おとうさん、こんにちは」。この一文でこんにちはと呼びかける子どもと父親の関係性が推測できる言語という日本語。こうした言語文化を日本語教育という分野で学んだときに、こういうものこそ思春期に学校で学びたかったなとわたしは思った。
yumizouさんのブクマから見つけたココ。ものすごく同意。
今回の息子の国語の試験範囲の単元の文章は説明文と、そして戦争の悲惨さを語る文章読解が二つ。説明文での学習は、文章構造や接続詞の復習なんぞをさせる。これはいい。でもねえ、文章読解の方。戦争の悲惨さを語る文章の紋切り型の読解を復習させるのは、正直言って気が進まない。これが学校教育に慣れるってことなのか、とさえ思う。
国語が小説文化を学ぶことに加え、道徳教育や情操教育の要素をもっているってことなんだろう。ただ、そこに問題だと思うこと。国語教育と情操教育をミックスさせることで、情操教育の答えを一個に結びつけていきかねないとこなんじゃないかな。あんまりうれしいことじゃないね。