日本語の世界にいたときからもう16年も経ってますから、現在の状況はわかりません。でもyumizouさんのおっしゃる問題点は当時からあったと思うし、いやもっとひどくなってるのか?と思った。
先日の研究発表を聞いている中で,前提として
多少の誤りが入っていても,全体としてわかりやすく説明できるようにしたい
という趣旨の発言があった。日本語教育というのは単なる研究ではない。研究の目的は,実践に役立たせることだ。なので,よりよい実践のためならば,多少の誤謬に目をつぶる,誤りを内包していてもそこについてはぼかして進めていくといった,手法をとりたいというのは理解できなくもない。
ただし,それには条件がある。それは「教えている側が含まれている誤りをちゃんと理解できている」ことだ。ところがこの条件がなかなか難しい。日本語教育の現場を見たことがあるわけではないので何とも言いがたいのだけれど,日本語教師,ないし,日本語教師を目指す人向けのサイトの掲示板への書き込みを見ていると,日本語に関する基本的な知識が足りないように思えてならない。
国語教育と日本語教育 その2 - b#
わたしは日本語教育能力検定の第三回目に受験、合格。合格率は18%でした。18%って低くないですか? 試験範囲は広いけれど、でもってわたし自身は受験準備にとても時間を使ったけれど。それでもそれでも本当はもっと合格率が高くていいのではないか、と思ってました。そこが日本語教育の現場の問題だと思ってた。日本語教育能力検定は単なるスタート地点であって、この試験準備からそして合格から得られるものは「証書」ではなく、研究の姿勢だと思いました。「本当はもっと合格率が高くていいのではないか」。要するに研究姿勢が足らない人がとても多い、というのが印象でした。ぶっちゃけ言えば、学習者に勉強せいってとこで仕事してるんだからテメーももっと勉強しろよ、とは思ってたなあ。
例えば「( )練習しなければ、上手になりません。」という穴埋め問題がある。答えは「もっと」だという。ところが学習者の解答は「とても」だった。「どちらも動詞を修飾しているのになぜ『とても』ではいけないのか?」と聞かれ説明できなかった,という書き込みがあった。
これを読んでいる方は何を入れたでしょう?一般的な日本語話者であれば「とても」はちょっと不自然かな?というのは感覚的にはありそうなところで,でも「説明しろ」と言われると難しいだろうと思う。でも日本語教師は一般的な日本語話者ではないので,この辺で悩まれちゃうのはちょっと困るなと思う。
国語教育と日本語教育 その2 - b#
穴埋め問題を作るには、その穴埋めに必要な前文を用意することは必須。これはyumizouさんも上記引用部の後におっしゃっているように文脈の存在というものがあるから。ここだけもってきて「説明できなかった」という時点で文脈の必要性を理解していない。
- 試合で負けてしまいました。( )練習しなければ、上手になりません。
- 「いつまでたっても上手にならない」「( )練習しなければ、上手になりません。」
また日本語学習者に対しての「説明」は、短時間に多くの例文を提示することが必要。説明するための言葉を多用しての説明は、講師の自己満足に陥る危険性もアリ。
- 「もっと」や「とても」は、程度を表す。
- 「もっと」は程度が増していく表現。「とても」は程度が甚だしいという表現。
- この袋はとても小さいです。もっと大きな袋をください。
- その説明ではわかりません。もっとわかりやすく説明してください。
- その説明でとてもよくわかりました。もっと例文を出してください。
それともうひとつ。
大体「動詞を修飾しているのに」というところで説得されてしまうところが困る。それは( )内に副詞が入りそうということしか理解できていないことになる。「とても」が不適切な理由としては「とても」は状態を表す語にかかるということがある。形容詞(日本語教育では,形容動詞もナ形容詞という名称で形容詞扱いされる)だけでなく,動詞にかかることもあるが,「とても困っています」のように,その動詞は状態を表すものになる。「練習する」という動作にかかるのは不適切という説明をしたらいいのではないか。
国語教育と日本語教育 その2 - b#
ここなんですけどね。学習者に余裕がある場合はこっちもいっときます。
- 5時に集合と聞きました。その時間にはわたしはとても行けません。
- こんなに多くては全部はとても食べられません。
*角川類語新辞典
195大変 程度が甚だしいこと
27【迚も】(とても) 彼は-いい人だ。これは-おもしろ小説だ。○たいへん。非常に。強めて「とっても」とも。
(注)「とても」は本来打ち消し語を伴うものであった(とても見込みがない)が、程度が高いことをほめる意味でも使うようになった。
なんてとこで。以下、yumizouさんが書かれていることは全部もっともだと思う。まあその上で、日本語教育という仕事を選ぶのはそれが職業だと思うにはきつい面があるよな、とも思います。語学というところで英語教師に比べてギャラは安い。参考書にやたら金かかるし、参考書をいくら買っても勉強に足りるということにはなかなかならない。研究趣味でもないと続かない仕事のようにも思うとこはありました。
わたしが仕事をしているときは国立国語研究所で年一回研修があったんですが。参加者のレベルにはすさまじい差があったように記憶しています。
ま、こっから「自分語り」なんだがな。妊娠9ヶ月んときに国研の研修に参加したさ。参加者集団の中で同じく妊娠9ヶ月の人がいて。言語発達を一からひとつの具体例として知ることができるのは興味深いねえ、とか言ってたさ。このときに「胎動を文字表現」なんてことを遊んでたときに(なんかヤバいのか…)ってのをかすかに思ったさ。途中でわたしの口は鈍り出した。微妙に感覚の差があったから。今になればそれがどういうことだったのか、わかる。
言語発達を一からひとつの具体例として知る。このときにお腹の子をさして言ってたその子はダウン症だったわけで。そしてその言語能力はダウン症の中でも低い方に位置する子だったわけで。ま〜、運命ってのはそういう風なことが出てくるわけですな。
でもね、日本語教育という場において日本語をそして言語を学んでいたことは、結局知的障害児の子育てにも役に立ちました。これだって貴重なひとつの具体例でもあった。そして支援のヒントは日本語教育の現場にいたときの「お勉強」の中にもちゃんとあった。無駄なことってのはそんなには無いもんだね、ってのが感想。