多分稚拙な陳腐なものしか書けないだろうけれど、稚拙な「きをふし」論」に挑戦。目的は自分の中に生まれたあるひとつの疑問から。
わたしがとらえている「きをふし」におけるおおまかな特徴。
- 「きをふし」は、言葉で伝えようとするときに、伝える言葉の概念を一度壊して組み立てる。
きをふし日記:2006年03月07日(火)
さて、ここからが「日記書き」きをふしの魅せどころ。絞る。練る。編む。限界まで率直な事柄を、限界まであいまいな表現でしたためる。恥らう僕の照れ隠し、および! 僕というひとを彼らに伝える、構造そのものへの揺さぶりかけ。なーんてのは、言い過ぎだ。
「文脈争奪戦」について
わたしが、わたしの世界において、わたしが感じるものを、「きをふし」が編み出したものから見いだしていく。
そこで道しるべとなっていくのが記載されていく「言葉」であって、それは理解にとって必要な材料になっていく。
参考となっていく「言葉」に関して。一度壊されてまた組み立てられた言葉を解釈していくのは、わたしの中で、また、一度壊されてまた組み立てられていく言葉が材料になる。
ではどのように壊されたのか、どのように組み立てられていくのか。そこにその人間の固有の世界が影響していく要素が出てくる。それは「きをふし」が出した言葉群をまた一度崩壊させて組み立て直すことであり、そういう意味で「きをふし」の世界の一部を切り取って奪い取る。
そうした作業。その作業は、わたしはわたしの世界において、一度何かを崩壊させることであり、その作業やまたその作業に費やすもの自体を「きをふし」が奪い取っていくとも言える。
わかっている何か、わかっていない何か
硝子の割れる音/故詠みのベル
硝子の割れるような音をあなたに言葉で伝えることがどれだけ難しいことか。それが硝子の割れる音よりも優れているわけでもないのに。
言葉遊びは思考遊戯にほかならない。AはBに過ぎない。AこそがBなのだ。ひとが言葉に情緒を解すのか。言葉がひとに情緒を与えるのか。
硝子の割れる音と硝子の割れるような音。硝子の割れる音を録音してその音だけを同時に聞くということを共有すること。そこには硝子の割れる音が響くけれど、その硝子の割れる音に喚起されるものの人による相違。そしてその相違の先に見つけられるものとは何か。そこに行き着いていくものとは。
行き着く疑問
「行間」「背景」「文脈」に関して、引っ張り出してくるエントリ。
想像力を使って自閉症者の立場から自閉症スペクトラムと引きこもりを考えたらどんな比較ができるんだろう(その2)/かへる日記 (FRGFRG304)
「文脈弱者」であり「非行間的空間」にいる自閉症スペクトラムについて考えてみました。
ここで例示されていく会話の「文脈」は、一方的に要求されていくもので、歩み寄りや奪い合いが成立しない。
では、「文脈弱者」という言葉をもってきて表現される層には「きをふし」の理解は難しいといえるだろうか。
卒業式を語るこの文章に関して、その言葉群に暗黙の了解のようなものはあるのだろうか。
1行1行に対して真摯に答えを出し対応して行くのが、実際の自閉症スペクトラム者です。
想像力を使って自閉症者の立場から自閉症スペクトラムと引きこもりを考えたらどんな比較ができるんだろう(その2)/かへる日記 (FRGFRG304)
1行1行に対して真摯に答えを出していく対応。「きをふし」が卒業式を語る文章において、1行1行の言外の意味があるのだろうか、と思う。
心情の記載に関しては、実に説明的であるいることに挑戦しているかのように見える「きをふし」が、どのように解釈されていくのか、また解釈されることができないのか。それが行き着く疑問。