リツエアクベバ

satomies’s diary

新しいものを入れて古いものを整理する

 なんたらかんたらとへこんだ土曜が終わり、日曜。子どもたちを夫に頼んで銀座でちょこっと手がける仕事がらみの所用。その後新宿に行って飲む。
 西口を出て、以前から行ってみたかったドイツビールの店に行く。ずっと前にみなとみらいに行ったときに、たまたまやっていたドイツビールのイベントがあって。ドイツビールの生がうまくて。そこで出していたビールが飲めるはずのお店。
 ネットで検索して地図で確認しておいたんだけど。ここですか?ってくらいわかりにくい立地。雑居ビルの地下。
 時刻は6時ちょっと前。5時半開店の店の二番目の客。きちんとした制服をきちんと着こなした若い男の子の店員が、メニューを置きながら自分の口の回りを指して言う。
 「ボク、この辺なにかついてないですか?」
 ???。「今、ご飯食べてたんですよ、だから何かついてないかと思って。」
 このなつっこい男の子、かわいすぎ。このタイミングでこんなことをこんなちょっといわゆるこじゃれた店のこじゃれた制服を着込んで言う場合、当人のキャラや人間関係のさわりなんぞがうっすら見えるような感じ。唐突にこんなことを言って、そして大事なことでいえば、そんなこと言ってても品があるというか。人に許されることが多いキャラなんだろうと思う。
 ドリンクメニュー。うんちく講釈多いメニューでよくわからん。「生ビールが飲みたいの」と単刀直入に言う。すらすらとメニュー上の4種の生の講釈をよどみなく話す。しかし一個一個が長い。4種話し終わったときに手をたたいてあげる、ぱちぱちぱち。
 「しかし長かったよね」と、この男の子がテーブルを離れた途端に連れが言う。あらいいのよ、わたし若い男の子に甘い年齢になったんだからいい鑑賞タイムだったもの、と答える。オヤジのめんどくさいうんちく講釈を長々聞き続けるのはイヤだけど、あんなかわいらしい男の子の長い講釈は、その間堂々と眺めてられるし聞いちゃう聞いちゃう。「そういや『何かついてないですか?』はボクにではなくキミに言ったよね」あははマダム接待だ。何十年も前に同じ時期を過ごしていたいわゆる幼なじみという呼称を使うことのできる彼は、味わい深くはははと笑う。
 わたしが頼んだビールはバナナの味がした。彼が頼んだビールはリンゴの味がした。以前ドイツビールのイベントで飲んだビールとは結局巡り会えず。うまかったけど料金は高い。店の名前を出さないのはちょっとがっかりしたため。
 次行くぞ次、と、歌舞伎町のタイ料理店へ。歩きながら彼が店に電話を入れ、席があいてるか確認する。

タイ国料理店 バンタイ

 うまかった。最初っからこっち来ればよかったぜと思った。メコンというウィスキーをボトルで頼み、二人で3分の2以上飲んじまう。
 話題は現在やら30年以上前やら16年ほど前やら時系列を飛びまくる。以前会ったときから一年半たっていて、その間の彼の仕事の感想やらその仕事のときの話やら。
 それから映画の話。ロッキーを観にいったのよ体調悪い日だったんだけど無理矢理。あとゲゲゲの鬼太郎が予想を超えておもしろかったわ。「ゲゲゲの鬼太郎は仕事上でチケットもらってるんだけど」なら行っておいで、それなりに楽しめるというか、いやわたしはおもしろかったもの。「パイレーツ・オブ・カリビアンの新しいのを観たよ」、ああアレ長いんだよね上映時間。娘にはあの時間は無理だと思ってあきらめたわ。ジョニー・デップといえばアレよアレ、アレを知っている? ディカプリオといっしょに出てるヤツ。「ああ、ギルバート・グレイブだね、あれはすごく好きだよ大好き」。わ〜〜、すぐ出てくるとこがうれしいなあ、あのねあの映画を障害児のきょうだい児考察で語るとね、とかうんぬんかんぬん。
 あのさ。と聞く。ネットで見てそうかと思ったフレーズなんだけどね、男は映画のベストをあげたときにその映画を観たときに童貞であったかどうか、ってのが関係してくるだのなんだのって(誰かのはてブからとんで読んだんだけど、どこだか忘れた、コメント欄に対してのブクマだった)。それってどう思う?
 「男はさ、ずっと童貞みたいなもんじゃないかと思うよ」、と、彼が答える。ふうん。わかったようなわからないような。ただそれがどうかどういうことかなどと言葉の追加をリクエストするよりも、まんま味わった方がいいように思って質問攻めを避ける。
 「この間、息子連れて横浜に行ったよ」。ベイサイドマリーナ。わたしは飯食いにいくとこだけど、彼は船乗るんだってさ、小型船舶の免許取ったんだってさ。あはは、あそこで船乗るヤツはどんな金持ちかと思ってたらここにいたのか、かっこいいねえ。今度船乗りに来るときうちの3人連れていくから飯食おうね。
 すっかり飲み過ぎて、帰りはグリーン車を使う。翌日の今日、はてなを開いて土曜の自分のへこみを眺める。自分に起きたことを心理的な距離をもって眺められるようになっている自分に気づく。