リツエアクベバ

satomies’s diary

聞いちゃった。答えてもらっちゃった。

 ナニゲに増えていくカテゴリ。なんてことは本題に関係無いんです。いくよいくぜ本題。 

「被ボランティア」とボランティアの立場が逆転したらそれはそれですごく素敵なことですよね!/かへる日記 (FRGFRG304)
 自分自身が何か興味もったこと事やある問題を、「誰かのこと」ではなくて「自分のこと」として考えて、じぶんからそのことに関わっていくということだと思うんです。

 これはボランティア行動という上で重要なレディネスだと思うのですが。でも、ボランティアをしようとしている人がその「興味もったことやある問題」というものに、どこまで向かい合おうとしているのかが、実はわからない。そのときにボランティアさんの関わり方に(ううんちょっと待って)感覚が生まれたときに、非常に難しい。下手にツッコミ入れたら逃げられてしまうのか、とも思うわけです。
 逃げられるっつ〜か、まあそれはご縁が無かったものというケースにもなるのだけれど、もしかしたら双方が学び合うタイミングをまちがえたのではないか、とか。そのまちがえたタイミングで渡してしまうもののために、失うものが大きいんではないか、とか。そういったことを避けるために、長い目のおつきあいのようなものは必要だと思うんですよね。

 そこで、ボランティアの人にそこで起きたこと、自分の上げて来た感情の空回りなんかに気付いてもらえるような受け入れ側の体制というのも必要なんだと思います。

 まあ、実はですね。というか。わたしはこの「受け入れ側の体制」として、挫折してるんですよ以前。知的障害児の音楽を媒体にした、まあレクリエーション活動のような場で。回数を重ねていく上で、若いボランティアさんが「わたしはここで必要とされていない」とトーンダウンしてしまった。ふむふむふむふむ、と聞く。そして今度は場を演出していく主体者としての音楽療法を受け持っていただいていた、まあいわゆる場を創り出す責任者という形の方に「あの人は使えない、むしろ場にとって邪魔だ」と言われてしまったわけで。それもわかるんだな。
 ミーティングでなんとか越えようとはしたんですが、ボランティアさん側の「自分のボランティア行動が否定された」感を越えるのは難しかったです。ボランティアの担い手を増やし、この否定感を薄める状態にもっていったのだけれど、それは「辞めやすい方向」を作るという展開になっていってしまったし。つまり、人手が無いのなら自分でも、というものさえも、わたしは奪ってしまったというか。
 ヒントはやっぱり、「ボランティアについて/リーダーの部屋」や、このブログでのそのひとつ前のエントリで語られている「着地点のズレ」なんではないかと思うのですよね。
 まあ結論を無理矢理出すとすれば、ボランティア体験ってのは自分が手渡せるもの得るもの得られるものってのを短期的スパンで考えてはいけない、ってことなのだろうなと。関わった期間は短期でも、その意味が見えてくるそしてわかってくるってのは、けっこう長期的なスパンなんではないかと思うのでした。全ての論理はそのヒントなのかもしれないです。
 自分の経験としては、たったの数回しか関わらなかったボランティア体験というものがあって。それは重度・最重度の知的障害者を利用者さんとする成人の通所施設だったのですが。ボランティアとしてやることは、陶芸室で粘土こねて自分の好きなものを作ること。利用者さんとは特に関わらなくていいこと。つまり、社会から隔離されてしまっているような一面をもつその場に、普通の社会を小さな形でそこに存在させるということ。これが施設側の狙い。関わらなくてもいいということでも、隣で粘土こねてれば自然関わるわけで。何回か行けば、自分に役割を与えられなくっても、周囲の人間と楽しい時間なんてのができていく。おもしろかったですよ、本当におもしろかったこのボランティア。そしてこの体験の意味なんだか着地点なんだかどうだか、まあはっきりしないような、でもくっきりとした記憶というものは、何年たっても自分の中に残り続けています。