リツエアクベバ

satomies’s diary

マンパワーの発掘

 id:kmizusawaさんの行動ってヤツに、ちょっとつきあっちゃおうって、まあそんな軽い動機で入れたエントリ「福祉と負担」ってヤツがぼこぼこアクセス呼んできたなあ、と。そしてトラックバックもぽんと受信。

福祉の民営化/fujixeの日記
 さてここで、逆に「福祉に使われる税金は納めなくて結構です。その代わりあなたが寄付したい施設や団体に、寄付したいだけしてください」となったらどうだろう。果たしてうまくいくだろうか。

 いや、すみません、わたしはうまくいかないと思います。選挙の公約ってとこで福祉ってのが出てくると、「自分が安心できる制度」ということに人は頭がいくんではないかと思うんですよね。自分が何かあったとき、自分が年老いたときの安心。そういう感覚ってので、福祉だ、わー、みたいなものもあるんじゃないかと思うんですよね。今、どこぞの誰かに、って要素はそんなにも高くはないと思う。
 ちょっと前の、先天性の心臓病の子に対しての寄付金の問題の件のときのあたりのヤツ。こういうことがけっこう入ってくるんではないか、と思うんですよね。

 こうした支援お願い活動に関して、どう接点をもつかもたないか。これは話題に関しての自分の「縁」なんてものが関係してくると思うんですよね。近い人間は近い分、縁を感じるだろうし、輪を広げていく中で、支援者と接点がある縁なんてのもあるだろうし、子をもつということ自体に縁を感じる線なんてのもあるだろうし、その縁の持ち方感じ方というのは、もうこれは人それぞれなのだと思う。
hatayasanからTB受信/S嬢はてな

 それと福祉を回す予算ってのの配分以上に金が要る場合、営業力ってものも必要だと思うし。どこから金を生み出すか、どうやって人に理解をいただいて資金協力をいただくか、とか。この「力競争」になるような気もするというか。
 いや、この「力競争」ってのも必要だとは思うんですよ。ただねえ、この「力競争」に加われない、もしくはその力が無い、持てない、ってとこにも必要な支援というものはあるわけで。ここに格差社会ってのが介入しそうな怖さというか。
 で。お金は有限なんですけれどね、マンパワーは無限なんじゃないかと思うんですよね。要するに、福祉的支援というものが必要な場に、いかに人の力を引きずり込むか、ということ。必要になってくるのはこの力じゃないか、と思うわけです。
 その観点からしてもね、「障害者なんです!」と叫んでちゃヤバいわけですよ。いつだってどこにだって、このマンパワーを生み出す可能性ってのは転がっているわけだから。そしてたった一人の「障害者なんです!」って強引さが、マンパワーを生み出す可能性をつぶしてしまうってことだってあるわけです。
 福祉マンパワーって、専門職や専門職員じゃなくたっていいわけですよ。理解してくれるってだけで、それはマンパワーってのを生み出す発端なんだと思う。
 ここから私事ってヤツですが。いや私作戦ですが。わたしは娘の就学を機に転居してきた。夫の実家がある地ではあるが、わたしの人間関係というものは無いわけで。娘を連れて歩きゃ、まあそれなりに娘は変なわけです、いわゆる普通の子じゃないわけで。怪訝そうな顔をされる接点なんぞも生まれるわけだ。
 はい、チャンス到来。まず第一作戦は地域に名を売ること。どんな怪訝そうな顔されようが、「ちぃちゃんっていうの、よろしくね」と。娘が困ったちゃんのことをすれば、「ごめんなさいね、この子、ちぃちゃんっていうの、よろしくね」。ここで、あのちょっと変な子ってのから、「ちぃちゃんっていう子」と、地域での認知が始まるわけです。つまり、知ってるというご縁作りですね。
 この「知っている」という効果が及ぼすもの。これは自分が育ったときにあった実感。自分とこの小学校にいた障害児。この子に対しては「知っている子」として、地域はそれなりに理解があった。でも、道一本隔てた別の学区の障害児には、同じような理解は無かったんですよね、得体の知れない存在だった。今から思えば障害としては「知っている子」の方が全然重かったのに。
 娘は知的障害がある、知的障害のある子を育てていく。このときに思い出したのは、この、自分が育った地域のこの経験だったわけです。おし、そうか、わかったぞ、と。そしてその観点で前住地では成功したわけだ。新しいとこに住むなら、また仕切り直しをすればいいわけで。
 ちぃちゃんを知ってて、ちぃちゃんのママを知ってる人が増えると、どう接していいかわからん障害児に関しての質問ってのが流れてくる。同じマンションにこういう子がいる、おかあさんともよく出くわす。どう接していいかわからん、と。
 ああ、そしたら顔合わせたときに、まあできるときでいいから「こんにちは」って言ってね。知っててくれる人がいるってだけで、なんとなく安心するから、と答える。ひとりが挨拶する仲になると、なんとなく周囲の垣根ってのは低くなっていくんですよね。低くなっていくと、ちょっと変わった行動なんぞ、「どうして?」と聞きやすくなる。聞けばああなるほどってこともある。
 そうすると、出てくるんですよ、「何かできることがあったら言ってね」って言う人が。この一言って、言っちゃうと何頼まれるかわからなくて怖い、って人もいるわけで。でも、言ってくれたからって、なんでもかんでも頼もうとなんて思わないんですよ、特に生活の中に困難抱えてる人は、その困難ってのが自分以外の人にも負担だろうってのがわかるから。だから実際何か頼めなくても、すごく大きいこの一言の価値って。受け入れられてる、って、そういう実感のスタートなんですよね。
 ってことで、転居後10年目の今、すっごい動いてくれてる人、いますよ。もう感謝の限り。うちの娘に対してじゃない、もっと支援を必要とする子のために。
 「書いて置けよ、わかるように」っていう、かえるさんの経験の話。わたしは一番残念だったのは、周囲、なんですよね。この子とこの親を知っていれば、割って入ることもできたはずなんですよね。また、誰かに割って入ってもらえた経験のある人は、それなりに柔軟さを身につけていける可能性も存在する。この親子がこれまでにそういう人間関係を作ってこれなかったということもあるのだけれど、それはこの子の親だけの責任ではないとも思う。障害特性として、そこまでできないタイプの障害はたくさんある。それ知ってた人、いるだろ、とも思う。この子知ってて、この親知ってて、この親子をこういうやりとりに追い込んでしまった周囲、というものが非常に残念なんですよね。一人でできることって、たかがしれてるんだから。
 マンパワーってのは無限に発掘できるはず。わたしはここを信じているのだと思う。そしてそこに必要なのは、堅苦しい議論をできる力よりも、実は一休さん並の頭の柔らかさと明るさなんではないかとも思うのでした、まる。