リツエアクベバ

satomies’s diary

くっそ〜、油断してたぜ

 ちょっとちょっとちょっと。油断してたぜ、きをふしが更新してんじゃね〜かよ、気づかなかった。すっかりはてなしか見てなかったぜ。しかも「Sのきをふし考」ってヤツをもっていってるではないか。

2006年12月13日(水)/黒板ぽ
しかしひとつだけ覚えていることがあって、こういうことを考えた。高校生のころに書いた教育論(広く、学校生活に関する日記)を、僕はもう(教育学や教育職に携わらないかぎり)二度と書くことはできないだろうと。この理屈はSのつくった「」って観念で言い包められそうだ。偶然に再読した「視姦」って、要するに、この年代がこの年代にいる社会で思うことを、彼はリアルタイムに思考と文字にしているだけだと思うしね。という言葉はまさに「箱」を想起させる。

 そうだよ、きをふしってのは、閉じこめられた空間の中で生まれたイキモノってとこがあった。その「箱」を出たときにきをふしがどうなるのか、今はその途中にいるような感じがする。
 「箱」の中にいたきをふしの集大成のようなもの、それが卒業式の日に書かれたものであったということ。そのこと自体も味わい深く、実際わたしにとってかなり好きなものになっていることはまちがいない。
 卒業式を語る、級友の死を語る。これを大人がそれっぽいそれらしく書こうと思ったって書けやしないものがここにはあって。それはもう手が届かないことがわかっていて、しかしかすかにかすかにああそうだそうだよこんな感覚なんてものがぼやけて自分の記憶ではなく感性というものの向こうに見えるような感じ。
 このかすかにノスタルジックに自分が感じるものがここにはあるのだけれど、もちろんこれはきをふしの世界の表現であって、わたしがこの時期にこういう感じをつぶやいてみたって同じことにはならないと思う。でも卒業式ってものはなんだかんだなんだかんだとどう意味づけしようと、そして実際それがどういう意味のものであるかわかっていようと、実際その時間に存在していたときにもっていたようなかすかな感覚ってものをこの文章の文中の「かくかくかくかく、きゅきゅきゅきゅ、中履きを体育館の床に摩り付けて何をしているのだろう」ってのが、ものの見事にもっていっているような気がするんだわたしは。
 そして「箱」を出たきをふしにも、もう遠いものになっていこうとしている、同じようなものは手に入っていない感じがするんじゃないかとも思う。
 「取り返せない何か、戻れないどこか」。そうだよそういうことなんだよ。人ってのはさ、たとえば20色の色鉛筆のようなものだったら、時の経過の中で、少しずつその色を失ってしまう場合があるんだよ。で、本人がいつまでも20色もってるような気になっていて、実は減ってしまっていることに気づかない。
 わたしはこれがこのことが怖いんだろうと思う。だから「箱」の中って時代にもてる色鉛筆ってのをすごく感じるきをふしの世界ってのが、すごくすごく好きだったんだと思う。
 じゃあ時の流れと共に、人ってのはただその色を失ってしまうだけなのか。いやそんなこたない、そんなはずはない、冗談じゃない、そんなの許さない、なんて感覚が自分の中にはあるんだわたしは。少なくともかすかにくらいは遠い昔にもっていた色は忘れない、忘れるもんか。そして減ったら次の色ってのを絶対に獲得したい、してやるとも思っている自分ってのがあるんだなと思う。
 知恵もつく、利口にもなる、それは必要なことでそれがなかったらバカみたいに年齢欄の数字が増えるだけなんだけれど、でもそれでもそこに加わる分別臭いもの以外の色ってのも、もっていたいんだわたしは。もてるだろうかという怖れなんてのも現実持っていながらも。
 「取り返せない何か、戻れないどこか」。でもきをふしは生きている。生きているから「箱」を出たことに小さく困惑しているような感じがする。そのきをふしをわたしは今野放しにし、その困惑さえも実はきをふしだと思っているんだ。多分わたしはきをふしの史上最大のファンだと思う。