リツエアクベバ

satomies’s diary

さて、着手するかな

えっと、どういう順番でこの流れを見たんだったっけか。まずココだったんではないかと。リファラで「アレ?」って思った。

「閉じこめられた空間の中で女の子を見る視点の文章」から、いまの僕はどうなっているか? http://d.hatena.ne.jp/satomies/20061020

で、そこからココにいくのか。

しょ〜がね〜な〜、と、重い腰をあげるか。腰が重いのはさ、きをふしが過渡期に入ってるからだと思うよ。
きをふし論/反言子から自分の過去エントリに飛ぶ。過去のきをふしのエントリリンクリストでもあるからね。
とにかく。このエントリは名文であるとわたしは思う。誰がどう感じるか選ぶか選ばないかは関係なく、わたしにとってはずっと大事なものになっていることは今も変わらない。

では。上記を名文としてゆずらんわたしが、きをふしの知りたい「いまの僕」を考察すれば。
高校時代のきをふしの「箱」は、視線と指導との中での「箱」とすれば。現在の「箱」を語るには、この二つが出てくるかな、と思う。

高校生のときの「箱」は、イメージで言えば机に座った姿勢で箱の中にいるようなもの、でもって今は、自分の手で自由にその箱の壁をさわってみることができているというような、そんなイメージ。また、誰もそれを監視しているわけじゃない。
おもしろいことにきをふしというネット上に現れたイキモノは、「箱」を強化させると瞬発力が出てくる。今は、やわやわとした「箱」の中で、そのやわやわとしたところを歩いているような感じかな。
女の子ということで言えば。高校の教室という限られた空間の中での視点から変化はある。もう何を妄想しようがそこに年齢としての枠がはずれて、そこらのにーちゃんと変わりはなくなって、その表現にたいした特殊性は見られなくなるから、ってとこはあるようにも思う。
以上、きをふしが過渡期であるように、現在の稚拙なきをふし論は全て途中。大学で学校を終えようが、大学院まで進もうが、そこで「出る」ときの最後の年かなんかで、また瞬発力が出るような予感。