アンデルセン童話の「エンドウ豆の上に寝たお姫様」は、20枚のマットレスと20枚のケワタガモの羽毛のキルトの下の、たった一粒のエンドウ豆を感じ取った。
経験を積む、知恵をつける、困難の回避の方法を知る。それは20枚のマットレスと20枚のケワタガモの羽毛のキルトのようなもので、快適さを与えてくれるのかもしれない。
でも、たった一粒のエンドウ豆を感じ取っていられるのかどうか。
たった一粒のエンドウ豆の存在を感じなくなるということは、生きやすくなるということかもしれない。でも、たった一粒のエンドウ豆の存在を気づく、知っている、ということと、全くわからなくなるってことは、すごく大きな差ってものがあるんじゃないか。
その、たった一粒のエンドウ豆の存在を知っていることは、他のたくさんのことに気づくためにとても必要なことなのかもしれないと思う。何より一度わからなくなってしまったら、もうずっと気づくことはできないんじゃないかとも思う。
なめらかに行きすぎるものの中で、ざらっとした感触を与えてくるもの。それは何か、その正体は何か、そう感じる自分は自分のどの部分にその感触をもつのか、とか。
何も感じない安眠を選ぶのか、いつまでも気づき続けることを選ぶのか。To be or not to be, that is the question.
う〜ん、わたしは多少の不眠の方がいいなあ、多少に感じる程度には図太くはなりたいけれど。