リツエアクベバ

satomies’s diary

そうだったのか、と思ったこと(愚痴、もしくは吐き捨て)

 ■2006/06/05 (月) 「優しくしてほしい」という隠れた願望/じっぽ当直日誌・スーパーマイルドを読む。そうだったのか、と、なんだか、どこかで納得いかない自分の悲しみのようなものを受け取ったように思った。この文章の内容とは全然違う、本当に全然違う。でも、誰かから受け取りたかったものをもらえたような気がした。
 娘の養護学校のPTA主催の勉強会ってヤツで、前年度に性教育に関してやって欲しいという要望があったそうで、今年関わる役員の仕事でその企画を立てる役回りが回ってきた。性教育、知りたいとは思っていても漠然としている人が多いんだと思う。高等部にもなればそれなりに自分で情報収集は始めるだろう。でも小学校の高学年や中学に入りたての頃は子どもの性的成長というものは、気になりながらも認めたくないものだと、どこかしまい込んでしまっているものもあるだろうと思う。積極的な情報収集はしない人も多いだろうと思う。だから事前アンケートというものを作ることにした。知りたいことは何か、知らないことは何か、生活に密着した疑問は何か、そんなことを掘り起こすために「参考語句」というものを入れ、質問自体が出て来やすいように作った。
 「身体の変化」というところで、乳房の変化、初潮、月経、発毛、体毛、射精、夢精、遺精、などと入れていった。そしてこの事前アンケートの教員チェックで「遺精」に「?」がきた。こんな言葉は使わない、いらない、ということで。
 職員室の管理職席近くで演説する。いらないってことは絶対無い。成長した知的障害のある男の子で、下着に精液らしいシミや漏れが出ることがあることに気づいている母親はいるはずだ。知的に障害があるからこそ、性行為や自慰や夢精というわかりやすい形以外に精液の漏れがあるケースは出てくるはずだ。親がちゃんと知ることは大きい。言葉にナジミが無いならば語句の説明をつける。
 そうやって言ったはずなのに、教員チェックが終わった原稿には「遺精」のところに「トルツメ」と赤で修正が入っていた。その語句を取れ、と。空いたスペースを詰めろ、と。
 なんでなんだよ、違うよ、違うもん、と思った。なんで「そうか」って言えないんだろうと思う。目にしたことが少ない語句なら、じゃあ何故オマエがそういう語句をさらさらと記述できるほど知ってるんだ、って聞けよ、と思った。
 娘が幼児期のときに、わたしはダウン症のでかい親の会の会報の編集責任者をやってた。初潮、月経、生理の周期、生理不順なんてのは、特集で何回か組んだ。その会報を購読する中学の教員が「あのね」と。「初潮、月経に手をつけるなら、自慰と射精にも手をつけないとダメだよ」と。その方は、いわゆる知的障害者性教育の研究会に所属していたわけで。そして性教育に熱心だったその中学の教員の方が、どっさりと性教育についての専門誌や本を貸してくださったのだった。その書籍の全てに関して、性に関しての単語に関して、あれだのあそこだのそれだのなんて言い方はどこにも載っていなくて、その本の山を読んでいくには、全ての語句のいわゆる「正式名称」に心理的に慣れていくという「課題」がまず出現するものだった。
 口に出してはいけないという暗黙の強制があるようなそれらの語句。それが堂々と語句として出てくる記述の数々。「先生、わたし頭がおかしくなりそうだ」と言うと、この本の山を貸してくださった方は「その語句に対しての抵抗突破という洗礼を受けなければ先には進めない」と笑って応えた。そうか、そうなんだな、と思った。知的障害ということを念頭におきながら性教育を学ぶということは、結局は「知的障害を持った子どもをきちんと大人にしていく」ということにつながっていく大事なことだとわたしは理解していくようになった。ただその会報にはそこで学んだ全てを生かすことはできなかった。知的障害をもつ子どもの、特に男の子の「性」というものに対して、赤ちゃんのママも読む会報にそのまま載せていくには、やはり衝撃が大きいんではないかと思ったから。結局このときのことは、その数年後に「ダウン症の思春期の成長」という特集を組んだときに、男の子の成長として「異性の親に対してのスキンシップと異性の親との入浴を考察」という面に生かしていったという展開。男の子の自慰行為の「権利と自由」、そして「場所の教育」などということには、さらっとふれるに終わったのだけれど。
 そんな長い年月を経由するいきさつなんてのがあって、わたしは女の子の親でありながら、男の子の性的成長に関しても詳しくなっているわけで。ダウン症の男の子の性器が異常に小さい場合、臨床として治療という判断をする線はどこにあるのか、なんてことも医師に質問しまくった時期すらあった。
 わたしには歴史があるんだ。その歴史の中でよかれと思って入れた語句だったんだ「遺精」。わからないなら語句の意味を入れるよ、ってことすら結局却下されたのか、と思った。
 「養護教諭とも相談した」と言われたので、保健室に行く。「遺精という言葉は取ってもいい、でも精液の漏れと書き換える」と主張。養護教諭に納得していただく。しつこいかな、しつこいよ、でもいいんだ。そんな語句の話をしていたら、中学生の男の子の親が、「時々パンツが汚れたという感じで下着を替える。確かに白いのついてるのよね」って言ってたもん。そういう語句を入れることで「そういえば」と思って欲しいし、勉強会という機会にちゃんと説明を受けて納得することは大事だと思うもん。
 ほめられたいんじゃない、言い負かしたいんじゃない、ただ、自分が過ぎてきた積んできた日々があっさりと無視されるかのような悲しい感じ。行き場の無い気持ち。そうだね、と言われたかったのかどうなのか。いや、ちがうんだと思う。職員室なんて場で「健康な男性にはわからない射精ってのがあるんだ」なんてことを連呼した自分が報われないことがかわいそうだったんだ、わたしは。そんな自分というものの一部が、どこか「優しくされることに飢えていた」ように思った。