リツエアクベバ

satomies’s diary

おやおやおよよと、幼稚園と保育園と

 rimaさんとこの更新をふふんふんふんと読んでいたら、ほえ?とびっくり。三歳児検診の発達相談で”ベテラン保育士”に「自閉症傾向アリ」のようなことを言われたとかなんとかだとか。

さて誰の言葉を信じましょうかしら/塀までひとっとび!

 はあ〜ん、なんともねえ、と思う。こういう診断じみたことを言ってのアドバイスって、一人の保育士の初見で言っていいもんかねえと思う。日常みてる保育士のメモと、そのメモを読んだベテラン保育士の初見。なんとも言えませんねえ、と思う。つ〜か、感想がいつのまにか診断になっちゃっているようにも解釈できそうなとこが怖いよなあと思った。その怖さっての、子どもの母親に簡単に与えることに対してなにがしかちゃんと思ってるのかいこの人たちは、とは思った。ダウン症のように採血でわかる障害は明らかに結果が出るけれど、行動傾向から診断する類のものは難しいとこがあるとも思う。
 障害を早期に発見することは大切なことだし、実際明らかにわかる障害を母親が強固に認めずに、必要な支援が遅れる場合があることはある。でも障害をもつ子の大半は、母親の「何かがおかしいと思っていた」ということの納得が診断だったというケースは多いんじゃないかとも思う。
 で。保育園と幼稚園と。入れたいとこに入れりゃーいいんじゃないかと思う。幼稚園だって年少クラスにはぐっちゃぐっちゃとスムーズにいかない子どもはいっぱいいる。それがたいがいは年長クラスでは妙におにいさんおねえさんになっていて、しっかりしちゃったりしていくもんだから不思議なもんだと思う。
 わたしは娘を保育園、息子を幼稚園で育てておりまして。個々のケースでそれぞれなのかもしれないが、わたしなりに保育園と幼稚園との違いを認識したなあと思う。どちらを選ぶかはその家庭なりの判断重視ということで。だいたい幼稚園か保育園か、ってことよりも、自宅からの圏内でどこを選ぶかどこに入れたいか、ってとこで選択は出てくるんだと思う。
 その上で。障害をもつ子は保育園の方が合っていると思う。その理由は、保育園は乳児からみている場なので、保育士が子どもの発達を乳児期から幼児期を通して全体像で知っているという感がある。また保育士自体が働く母親であることも多い。対して幼稚園は学校卒業後数年幼稚園の先生やってます的な職員が多く、そして経験として乳児を知らない職員が少なくないと思う。3歳時の時点である一定の状態になっている子をよしとするようなとこはあるとも思う。そういう意味で、遅れのある子は保育園に託す方が安心だと思う。
 また、保育園は日常的にお散歩に出る。外をよく歩く。生活圏を徒歩で知るということを日常的に積み重ねることは障害をもつ子には経験として大きい。幼稚園は行事以外は「柵の中」の世界であるということとは対照的な要素だと思う。
 保育園は保育の場であり、教育を含めた生活の場。幼稚園は教育の場であると言えると思う。だから幼稚園というところは、要はどんな教育特色をもっているか、ということだと思う。宗教をもって豊かにというもの、シュタイナー教育をうたうもの、体育重視をうたうもの、自由保育等、実に様々だと思う。
 ちなみにうちの坊やの通った幼稚園は「体育」と「畑」でした。スポーツクラブの指導員が定期的に入り、また年がら年中園所有の畑に出かけていって、大根掘ったり芋掘ったりタケノコ掘ったりイチゴ摘んだり、お土産はけっこうな量になった。かーちゃんたちは「現物支給の保育料バック」とか言ってました。
 通った幼稚園には申し訳ないが、「体育と畑」の特色で選んだのではなく、完全に立地。自宅と娘の通う小学校とのちょうど中間地点。就学と就園が同時だったので、送迎を必要とする娘の弟としては、母親の行動に関して大きく左右する立地というものが重要なポイントだった。
 好みで言ったならば。わたしは保育園の方が好きだと思う。日中の時間の中で何かあった場合に、生活の場である保育園はその報告とそして今後の園での対応等が出てくる。生活の場であるからこそ、解決は現場の中でという姿勢がよく見えるというか。その環境で慣れていたものだから、息子を幼稚園に入れたときに「○○だからおうちでなんとかしてください」とただ突き返される感じにちょっとびっくりして、ああこういう違いなんだなあと思った。
 それと。幼稚園はなんだかんだなんだかんだと早く帰ってくる。午後は長い。自ずとお友達同士の家を行き来するけれど、子どもが遊びたい子と親同士が気が合う子というのは必ずしも一致するわけではなく、変に気を遣う関係も出てくる。家庭によっては午後、だらだらだらだだらと大皿に盛ったお菓子を与え続ける家もあり、他の家庭との方針の違いも露見してくることがある。子ども同士のトラブルも、第三者が入りにくい。なんでもかんでもやっといてくれる保育園とはちがうのよねえとも思った。
 幼稚園はかわいらしい制服を着せ、それを選びたい親というものもいて。対して保育園の子が貧乏臭くこ汚く見える類の親もいるとも思う。保育園はとにかく着替えが必要で、どろどろぐっちゃぐちゃになるまで遊ばせる遊べるところという感想があり、やたらに着替えがいるもんだからこぎれいでなくたって着回したらい回しの中古で充分という気分になる。まあ自ずと貧乏くさい感じが出てきてしまうところもあるかもしれない。でもあのぐっちゃぐちゃになるまで遊ばせてもらえる経験というものも、けっこう貴重なものなんではないかというのが娘の4年間に対しての感想だと思う。
 あと保育園でおもしろいなあと思ったこと。同じクラスの園児たちの中に「同じ釜の飯を食う仲間」感覚が育っている感じがすることが何度もあったこと。朝来て活動して飯食って、そして着替えて寝て、それからまた着替えてオヤツ食って、そして遊んでという流れの中で「日常的に同じ部屋の中で布団敷いて寝てる」のが大きいんじゃないかと思った。まさにいっしょに暮らしている感覚があるんだろうな、と。園児たちは障害のある娘に対して実に柔軟で、その後の娘と他の子との関わりをみても、保育園育ちの子は娘の障害に対して柔軟な子が多いなあと漠然とした感想がある。障害が無くても、普段素直な子がぐずたらぐずたらなんだかんだややこしいときに、母親が納期や決算期でばたばたしている時期だったりして。まあ母親の多忙のストレスが子どもに出ちゃう場合があるということなんだけれど、そうした子どもの混乱に対して仲間同士が日常的に受容していくというか受容の流れが育ちの中で生まれていっているという具体的なケースを何度も見た。そんな経験からそういうことが子どもの柔軟さに影響しているんではないか、とか思った。もちろん個人差は大きいのだろうけれど。
 などと、娘の保育園時代は比較的早い時間にお迎えに行っていたこともあって、園の風景をよく見ていることがあったために、子どもというものに対してへーとかほーとか思って興味深い思い出は多いんだけれど。息子の幼稚園時代というものの思い出は行事関連が主で、こうしたへーとかほーとか子どもというもの自体に思うということは少なかったな、とも思う。
 ちなみにわたしは息子の通った幼稚園の先生の幼稚園の先生言葉には、最後まで慣れなかった。「おカバン」とか言うアレ。子どもに向かって変に高い声とか。娘の通った保育園は、言葉自体も言葉の調子も普通だった。