リツエアクベバ

satomies’s diary

子どもと「障害」

 yas-toroさんとこのコメント欄。ふむふむ思ったけど、なんかこんなことでずらずらコメ入れしていくのも悪いかなと思って、自分とこで続き。

 ただ、理解出来ないながらも、少しでも感じ取れたらと思う。今後、息子が学校で出会う事になる時に、きちんと説明……まではいかなくとも、親として何か伝えてやれるように……どうして良いかまださっぱり分からないのだけれど。
息子の成長メモ(from RinRin王国)/明日は明日の風が吹く

 子どもを見る限り、受け入れのいい子はその子の素養の部分が大きいかなと思うかなあ。「障害」どうのという以前に。つまり他者に対してという面での素養というか。親が何を言うかってのは、こういう素養がある子に関しては、あんまり関係無いとも思う。
 じゃその「素養」ってのはなんなのかい?と言われればうまく言えないけれど。娘の小学校時代の担任で特別支援教育歴長い先生は「安定している家庭が多いと思われる地域の小学校は、交流教育がうまくいく」なんてことを言ってましたね。
 わたしがなんとなく漠然と思うのは、幼稚園育ちの子より保育園育ちの子の方が受け入れはいいように思う。いろんなのがいて育ってるんだ、ってのを環境の中で知っているというか、そうやって育っているというか。だからバリエーションに強いという感触。幼稚園育ちの子はまず遠巻きに自分の安全圏を確保しながらじいっと見てるという感じ。まあ漠然とした印象ですけどね。保育園に比べると、半分親の手を握りながらの集団参加という感じがして、まあ遠巻きに怖がってという感じになってもそりゃやむなしという感じも。

>一緒に考える事にした方が良いのかな

 いや、子どもの方が先行くでしょうと思う。海外赴任で大人より子どもの方が現地順応が早い、ってのとちょっと似た気が。そこで子どもが回り道しているときに、親が変な正論や変な道徳論で経過をぶちこわすこともあると思う。
 子どもはそのまま相手を受け入れることもあるし、そして子どもだからこそ「違い」に敏感になったりもすることもあると思う。その「違い」に敏感になったときに出てくる言動に、親が急いでストップをかけてしまうことによる弊害もあるんじゃないかなあとも思う。そこ通らなきゃわからない、ってことも子どもにはあるだろな、と。
 ってより、毒のある対応で困るタイプってのは、そのマイナス面の情報を親が入れてる場合は多いと思う。親が意図してなくて、でも潜在的な部分が子どもにはバレるというか。こういう場合は親が「正しいこと」を何言っても上っ面のような気もするし、ケースによっては「親は正しく教えているつもり」で、子どもがその建前論の裏の本音をかぎ取っていることもあるんじゃないかとも思う。
 あと。子どもが関わっているように見えて、それは「教科書的に正しく関わる」的な要求を、大人から感じ取ってやってる場合もあると思うなあ。差別や違和感なんてものを自分の中で感じたりするところから始まって、結局関わっていく子の方が「教科書的に正しく関わる」子の先に行く感じはするなあと思う。きっと大人が急ぎすぎるんだろうと思う。
 まあそりゃ障害児の親としては、目の前で「初歩段階の差別的言動」なんてふりかかるとそれなりにズキズキすることもあるけれど。(これも過渡期、これも過渡期)と自分に言い聞かせることで、その子が数年後にごく普通に関わってたりするのをみて(過渡期と思っていて良かったなあ)なんてこともけっこうあったと思う。
 振り返って考えてみれば。大人になったときにそれなりにふむふむ的な話が出るのって、こういう「初歩段階の差別的言動」を、なんらかの形で自分がしたのを記憶してる人間だったりもする。子どもの発達ってのはそれなりに段階を踏むもので、親が手を引っ張り上げて引きずって段階を知らずに上ってしまえば、それはそれなりに得ないで進んでしまう経験もあるんだろうと。そんな風に思う。
 まあ子ども時代はほやほやと優しい教科書的ないい子ばかりの方が、そりゃこっちは傷つかないしラクなんですけどね。でも障害児の弟である息子もやっぱり、「障害」自体に関しては、受容と否定をフラフラと移動しながら進んできたなあと思うなあ。