リツエアクベバ

satomies’s diary

とりとめもなくいろいろと

appuappuさんからトラックバック受信。

職業能力って…? - とほほな毎日

いろいろふむふむと興味深かった。実際のメイトさんにはメイトさんの個性があり、また現場の方には現場の方が考えられることはたくさんあるのだろうと。
その上で、わたしはわたしでこの文章を読んでなんだかんだ思ったことを、これまたなんだかんだずらずらと入れよっかな〜と思った。

娘が保育園時代に育てられた要素

娘は2歳半から保育園に通園。障害児ということで娘のクラスには一名補助の職員が加配される。まあ手がある状態での保育園通園ということだったんですが。
ある日の午睡後の午後の間食シーンを見学。娘の前にごろんと、茹でたトウモロコシを輪切りにしたものが置かれていた。あら〜。娘は一歳半の時点で知的レベルの判定は「中度」。一般的にこの時期のダウン症児はまだまだ「軽度」の子はけっこういるわけで。それなりに重い判定のスタートというところはわたしの中にはあった。まあそんなとこもあって、わたしはこの当時の娘には、トウモロコシは一粒ずつはずして食べさせていたわけで。でも娘の前には輪切りがごろん。
え〜〜、と戸惑う新米かーちゃんに向かって、主として娘を見るためにそばにいた保育士さんが一言。「このまま出します」「ここでどうするかはちぃちゃんが決めます」。
なんかすっごい(そうか…)と思いましたね。食いたきゃ周囲と同じようにかぶりつくだろ、戸惑うのならそばにいる人間に頼んでみ。ということなわけで。手を回し過ぎるのではなく、どうしたいかはまず本人が決めてみろよと。困ったら始めて手伝ってあげるよ、と。でも困ったのなら困ったと、自分でその意志を出していかなきゃいけないよ、と。
この保育士さんの姿勢はいろんな場面で一貫してましたね。娘との根比べのような感じで、よく戦ってた。その上で。娘の発達の小さな芽に対しての発見は早く。いや早いってよりそりゃあまりにも親バカだろ的なレベルの発見ではあったんだけど。でも見事に彼女の発見通りに、その発達は芽から事実へと発展していった。だからこそ、娘と彼女との信頼関係は強固に成立していましたね。
彼女はすごいと思う。出会ったときはまだ保育士の専門学校を出たばかりの21歳のお嬢さんだった。そこから娘が6歳になるまで彼女は娘を育て続けた。わたしは娘を一人で育てたんじゃない。彼女の存在はものすごく大きかったと思う。
「まず、ちゃんと見ていてね。ちゃんと見ていられたらその次にはやらせてあげるからね」という場面で、うちの娘はすっと後ろに腕を組む。これも彼女が娘に残したもの。そして娘がきちんと後ろに腕を組んだとき、その後教えてやることには能動的にくらいついてきます。これは今でも同じ。
以前、娘を連れてリエんちに遊びに行ったときに。リエんちの愛息子はいわゆる「医療ケアが日常的に必要な子ども」。気管切開をしているため、日常的な吸引処置が必要なわけで。
リエちゃんが愛息子に吸引を始めたとき、娘はリエちゃんの側ですっと後ろに腕を組んでその様子を見ていた。そんな仕草でその様子を見ていたって、もちろんやらせてやることじゃない。そうしたらリエちゃんの目の前で、自分がその操作を全部覚えたことを、手の仕草で全て再現して見せた。かなり詳細に。リエちゃんビックリ。育てられたことが生き続けている要素でもあると思う。

見通しが立てにくい指示には関心を示さない

やって見せるときや、何かを教えるとき、指示するとき。本人に行程が見えにくい、見通しが立てにくいものには関心を示さないです。こうなってこうなって、そしてこうなって完成となる。これがわかりやすく提示されているか否か。娘の場合はここがかなり貴重。何がわからないか、どこを手伝って欲しいか。これを意思表示するのにも、この要素はかなり影響します。
以前学校での作業の場面で。牛乳パックを使った紙漉で、和紙を作っていた。そこで娘は漉いた紙にアイロンをかける作業を担当していたのですが。
この紙、紙の状態によってアイロンをかける回数が違ってしまうんですね。「はい、アイロンをかけて」「はい、これはもう一回」「はい、これはもういいよ」と。まあそんな感じだったんだけれど。指導していた先生は隣の子も見ていて。ちょっとそっちを見ている間に娘はとっとと目の前の紙を外に干しに行ったわけで。要するに次の行程に自主的に進んだ、と。
そうしたら先生が外に走っていって、それをぱぱっとはずしながら「これはまだダメ。勝手に干したらダメだから」と。
その後、娘は能動的な関心を全て捨てました。やらされることに対して無関心な表情で、やらされることのみ渋々という感じに変化しました。
この作業後の面談で「気分にムラがある」と言われたのですが。
「いや、アレは見通しが立てにくいでしょう。紙の状態によっても違うとも思うけれど、規定の回数は何回で、その後はアレンジなんだということを教えるためには、まず規定の回数に関してのわかりやすい指示は必要だと思う。また『これは完了』という合図のような指摘も曖昧だった。紙の状態が曖昧でも、本人に指示するにはきっぱりと『これは完了』と示さなければアレでは作業の区切りが理解しにくい。」
「ぱぱっとはずしちゃったとこはわたしも見ていましたが。干したものをはずすときにまずさわらせてみるとか、その手のことはありませんでしたね。自主的に動いた結果を『勝手にやるな』とまず否定された。これをどこまで、ってことが見えにくい。自主的に動けば否定される。何をどう否定されたのかもわかりにくい。申し訳ないですが、わたしは見ていて、娘の態度の変貌に対して(これはアリだよなあ)とは思いましたよ」。
さあて、わたしは娘をかばいすぎる親でしょうかなあ。まあ他の子が対象であったとしても、多分同じ感想は持ったと思うなあ。