リツエアクベバ

satomies’s diary

中学校の入学説明会と、ルールってヤツと

 先日、息子が入学する学区の中学の入学説明会に出席。
 携帯電話について。持ってくるのは禁止だということで。理由のひとつに紛失の場合責任が取れないということがあるそうで。バカ親に口あんぐりの話。

 生徒が持ってきた携帯電話が紛失。保護者からクレーム。「携帯電話の中にある個人情報の漏洩ってのをどうしてくれるんだ」と。
 持参禁止ですから、しかお答えできませんので。

 他には、持ってきた携帯電話を他者にロックをかけられてしまういたずらというものもあります、などというお話。家庭の事情で持たせなければならないことがある場合は、個別にご相談ください、と。教育という言葉で強引に押してくるってのもなんだという場合もあるかもしれないけれど、困るのでよろしくと、保護者教育のような話。
 本当は「ダメなものはダメ」って言わなくちゃいけないことってのもあると思う。でもそれじゃ通用しないって時代の子どもが生まれているのかもしれないとも思う。それは校則を破った経験がある人のパーセンテージが高い世代ってのが親ってのに増えてきているからかもしれない。
 んじゃ自分はどうかってとこで。
 この数日前のこと、息子の話。同級生が隠れていわゆる携帯ゲーム機を学校に持ってきていたと。持って来ちゃいけないのに、と。
 ははは、と、思わず笑う。いや持って来ちゃいけないってことになってるものは持って行っちゃそりゃいけないよ。でもね、ダメなものはダメってのが通用するのは子どもって時代であって、これから中学生になっていくのに「ダメなものはダメ」ってのが効かなくなることってのは出てくるんだよ。
 なんで学校にゲームを持って行っちゃいけないんだと思う?学校ってのは基本的には学校に必要なもの以外持って行っちゃいけないとこで、いわゆるおもちゃを持っていって遊ぶとこではないわけだよ。
 そこに持っていったらさ、ってことなわけだ。ゲーム機なんてのは、今はみんなが持ってるったって、高いものなわけだよ、金額として。それ持っていって壊れたらどうするんだ?無くなったらどうするんだ?アンタが学校に持っていって、それが無くなったり壊れたりしてもわたしは知らないね、アンタが悪いしか思わないもの。
 ダメってことにはさ、みんな理由ってのがあるわけだよ。その理由ってのを考えることに麻痺すると、いろんなことがいいやいいやになっていくわけだよ。だから「ダメって言われたから」ではなくて、「ダメとされる理由がなんなんだ」ってことを、アンタ自身が考えていかなきゃならない年齢ってのが、これから始まるんだと思うよ。
 おかあさんが中学のときはさ、「学校に必要無いものは持って来ちゃいけません」ってことになってた。でもさ、レコードを持って行ってたんだよ。本当は持って行っちゃいけないんだけどね。
 なんでだと思う?普通の中学だったらさ、学校から帰ってから友達と貸し借りできるじゃない?でもさ、おかあさんは電車乗って中学に行ってたんだよ。だから学校が終わって家に帰ったら、もう学校の友達とレコードの貸し借りってのができないんだよ、友達同士の家がみんな遠いんだから。だから学校に持ってくしかないじゃない?
 学校には持って行っちゃいけなかった。それはわかってた。だからさ、袋に入れて持っていって、袋は学校で開けずに友達と渡しっこをしていたんだよね。みんなそれはやってた。でもって、どの先生もそれを知ってて何も言わなかった。自分たちには理由があって、その理由を認められたいからこそ、何をしちゃいけないのかって、自分たちで考えてたってこと、それをそのことを理解されてたってことなんだと思う。
 ダメってのはわかってて、でもやりたい理由ってのがあって、その理由ってのをわかってもらうためには信頼されなきゃいけないわけで。そういうことをわかっていくってのが、小学生じゃなくて中学生なんだ、ってことのように思うよ、と。
 「自己責任」って言葉ってのがあってさ、小学生から中学生になるってことは、この自己責任ってことを知っていく、覚えていく、って、そういう年齢になってくってことなんじゃないかと思うよ。でもって、この自己責任ってヤツは、いいやいいやじゃわかんない、ってものなんじゃないかとも思うよ。
 ふうん、なんぞと言いながら、ガキから脱皮しようとしている息子。素直に人の言うことふむふむ聞いてくれるのが終わるのも、もう時間の問題かもしれない。いやわからない。いわゆる普通の成長をする子どもっていえば、わたしにとってはこの子は一人目の子なわけだから。娘に関しては、障害を理由に介入し過ぎないようにしなくちゃいけない、ってとこがある。でも息子に関しては、彼が離れていくことに対して、手渡せる時期に何を手渡して、どうやって手を振っていくかってことかもしれない。
 学校説明会の中で、もうひとつ携帯電話にからむ話。「親指でしか人に謝れない子どもが増えてきています」というフレーズにふうん。携帯電話の宣伝の「メールでなら謝れる」みたいなとこの、また逆の一面かもしれないとも思う。
 道具は道具、でもそれを使うのは人ってことで、人として何を考えるか何をするかなんてこと、それが大事なんだろうな。