リツエアクベバ

satomies’s diary

アクセスと「顔」

 個人ニュースサイトにリンクされたときに大量に訪れるアクセスに関しての「顔」について。

コメントには顔がある。トラックバックにも、はてなブックマークにも顔がある。だが、アクセスには顔がない。

 個人ニュースサイトから訪れる人が向き合っているのは個人ニュースサイトの管理者であり、リンクするものに関しては「すすめられたもの」を閲覧しているのだと思う。だからリンク先に対しての評価は、ピックアップしたニュースサイトに対して「期待を裏切らなかったか否か」という評価になっていくのだと思う。
 個人ニュースサイトから訪問する人は、一箇所の閲覧にはさほど時間を割かないと思う。訪れたブログの別の記事を閲覧しようというよりは、訪問したニュースサイトの別のリンクを閲覧するために、ニュースサイトに「戻る」。それは閲覧者が訪れているのはニュースサイトであり、リンクされているものは、そのニュースサイトの「コンテンツ」だから。
 個人ニュースサイトから訪れる人が向き合っているのは、リンクされているブログではなくて、個人ニュースサイトという場であり、その管理者なのだと思う。
 だからリンク先にしてみれば、ざざーっと来てざざーっと帰る「素通り」感覚はあるのだと思う。でも閲覧者が閲覧しているのはニュースサイトなわけだから、そこに「戻る」のは自然だと思うのですよね。
 わたしは被リンク時には、自分に対しての閲覧、というよりは、自分が書いたものをコンテンツとするニュースサイトの方に関心が行きます。自分が書いたものはそのコンテンツとして提供された、という感覚。新聞ということでいえば、その新聞の何ページ目かのどこかの枠のあたりに、自分の書いたものが載せられた、という感じ。その掲載の文章を読もうとする行動が、ひとつひとつのリンク記事に「アクセス」として記録される、ということかな、と。被リンク時にわたしが「顔」ということで見ているのは、ニュースサイトの管理者なのだと思います。
 自分がニュースサイトを訪問したときに、リンク先に閲覧するのは、その管理者がピックアップした、ということを「見に行く」という要素が大きいと思う。ピックアップに(なるほど)と思ったり、(ここには自分はそこまでの関心は無いな)と思ったり。例えばid:yas-toroさんのところはyas-toroさんが書かれたものを「検証」するための訪問、という感じになるし、駄文にゅうすは整理された枠組みに納得するために、かつて存在した「黒板ぽ」にいたっては、きをふしピックアップを見に行く、という傾向がわたしにははっきりしていたと思う。だから、そういう類の閲覧のときに、訪問した先から「あなたの訪問にはわたしに向ける『顔』が見えない」と思われたら、「ごめんなさい、そうなんです」ということしか言えないケースもあるよな、とも思う。
 そうではないケースとして、ニュースサイトのリンク先で一度目の訪問でもぐいっと関心を持って行かれたところに関しては、「ニュースサイトに対しての訪問の途中」であることを忘れてそこを眺め回す閲覧という感じになりますね。id:rima2005さんのところやid:foreplayさんのところがそうだったな。また、同じニュースサイトに何度も出てきて自ずと名前を覚えていくブログ、というのも、一度きりの関心、ということから変わってくるケースがあるとも思います。わたしにとってそういう場としては、ブログ向上委員会がいい例ですね。関心を持ち始めるのはずいぶん後になったけれど、知っているところという位置づけは大きかったと思う。
 被リンクによる「ざざーっと来てざざーっと帰る」波は、わたしは気持ちが悪いというより単純におもしろい。これだけの数の人がこのニュースサイトをこれだけ信頼しているんだ、と思う。だから被リンク時にはそのニュースサイトを関心持って眺め回しますね、リンク先にも飛ぶ。それはそのニュースサイトを知ろうとする行動といえるかもしれない。
 アクセス数なんてものは、リンク先としてあがらなきゃ、顕著な数字はわからないわけで。それを被リンクにより「見られる」立場になることが、単純におもしろい。その膨大なアクセス数をはじき出す訪問者の中には二度と会わない訪問者が大半かもしれないけれど、その体験で得られる経験の方が、ずっと関心があるんですよね。
 だからかもしれないのだけれど、被リンクにあがったときの、そのニュースサイトの影響力はおおまかに覚えているのだけれど、被リンク該当記事というものをあんまりちゃんと覚えてない。特にブログ論関連は情けないことに全然覚えてない。話題性の強さということでは、自費出版に関しての駄文にゅうすでの被リンクは、いまだに駄文にゅうすの過去ログからのアクセスがあるんですよね。この現象は、すごいな、と思うな。