リツエアクベバ

satomies’s diary

フリじゃね〜のよ、アレってば

年齢の事、ブログに書くという事……といった辺りの話題(最初のはフリというだけかもしれないが(笑))。
■[ネット]いろいろ思った - S嬢 はてな/ 明日は明日の風が吹く

 フリじゃね〜。あの引用はわたしにとってとても大事。あの部分が無かったら、あの文章をとりたててリンクさせることは無かったと思う。そのくらいアレはわたしにとっては大事な部分だった。
 このあたり。象徴するようなワードとして、以前わたしは「色鉛筆」という言葉を使っていて。長文になるが自分とこだ、まんま引用。

 「取り返せない何か、戻れないどこか」。そうだよそういうことなんだよ。人ってのはさ、たとえば20色の色鉛筆のようなものだったら、時の経過の中で、少しずつその色を失ってしまう場合があるんだよ。で、本人がいつまでも20色もってるような気になっていて、実は減ってしまっていることに気づかない。
 わたしはこれがこのことが怖いんだろうと思う。だから「箱」の中って時代にもてる色鉛筆ってのをすごく感じるきをふしの世界ってのが、すごくすごく好きだったんだと思う。
 じゃあ時の流れと共に、人ってのはただその色を失ってしまうだけなのか。いやそんなこたない、そんなはずはない、冗談じゃない、そんなの許さない、なんて感覚が自分の中にはあるんだわたしは。少なくともかすかにくらいは遠い昔にもっていた色は忘れない、忘れるもんか。そして減ったら次の色ってのを絶対に獲得したい、してやるとも思っている自分ってのがあるんだなと思う。
 知恵もつく、利口にもなる、それは必要なことでそれがなかったらバカみたいに年齢欄の数字が増えるだけなんだけれど、でもそれでもそこに加わる分別臭いもの以外の色ってのも、もっていたいんだわたしは。もてるだろうかという怖れなんてのも現実持っていながらも。
2007-01-03 くっそ〜、油断してたぜ

 自分が失っていってもわからないだろうこと。そういう鈍感さが自分を少しずつむしばんでいくということ。その漠然とした恐怖のようなものがある。そういうこと。でもそれにがむしゃらに抵抗するのではなく、自分が今日を書き留めることで見えてくる自分の色鉛筆の色たち。そのことがとても大事になっていくわけで。
 20代のとき、とてもイヤだったこと。自分より年長の人間が「こんなこと知らないよね」とか、わたしの世代として当然知らないことをわざわざ言ってくること。自分たちのノスタルジーにわざわざつきあわされること。知らね〜よ、決まってんだろ、知らね〜よ、と。
 ただ、言いたくもなる気持ちもわかってきた。過ぎ去っていくもの過ぎ去っていったものがどこか何かに無視されていくような感覚。忘れようと過ぎ去ろうとしていくものを無理矢理呼び出してみたくなる感覚。
 それは少しずつ少しずつ、自分の中から奪われていくものがわかっていくからだと思う。奪われていくものを笑ってみていられた時期、認識していく時期。それと。遠い昔聞かされた話が自分の中で現実になっていくこと。
 人の名前がホント出てこなくなった。ほらほらあの人なんだっけあの人名前なんだっけ、という会話が同世代の人間との会話の中で、あんまり珍しくなくなった。昨日観た映画の話を夫にするのに、数時間もの間「竹中直人」という名前が出てこなかった。出てくるのはひたすら「竹脇無我」、でも「竹」まで来ても、わたしのシナプスは動いてくれない。
 なさけね〜よ、これが手にする現実だ。それをため息と共に捨て去ってもなんもおもしろくない。つまらない、そしてそうやってきっと失っていく「色鉛筆」。でもね。無理矢理働かせる自分の脳の中を、竹中直人がいろんな顔で暴れ回る。このいろんな顔で暴れ回る竹中直人を文字にしていこうとしたら、それはらんららんらんらんらんらんな感じを呼んでいくことを、わたしはもう知っている。
 この出てこない名前。映画の公式サイトや検索なんかでちょちょいと調べて「あ〜〜〜〜、そうそうそうだった」なんてことは簡単なことなんだけれど。でもシナプスは使った方がいいのだそうだ。シナプスは使わないと減っていく。だからとにかく思い出すことに努力する。がんばれわたしのシナプス! なんてことをハチマキしめたようなわたしのシナプスちゃんたちががんばってるぞ〜的イメージで文字にしたてあげたなら。それはらんららんらんらんらんらんな感じを自分に巻き起こしていくことを、わたしはもう知っている。
 やたらに伸びた髪の毛は、その長さに細かく段が入ったカットになっていて。その微妙に不揃いな毛先を見れば一番長い部分でケツのちょい上にまで到達してきた。少しずつ黒い毛に混じって白い毛が増える。髪の毛の総数の中でパーセンテージを徐々に上げ侵食していく白髪。染色はヘナ使用なので、よく見れば染色された白髪はわかる、赤茶の毛の束。あ〜あ、白髪増えたなと思うだけなら単なる婆の愚痴。でも「すごいぜ、白髪の長さコンテストじゃいいとこいくぜ、ケツのちょい上まで伸ばしてもらってる白髪ってのもそう無いぜ。」などと言いながら、ヘナの効用でも述べていけば、そりゃらんららんらんらんらんらんな気分にもなっていくわけだ。それをわたしはもう知っている。
 これは今日を書き留めていくことのひとつの魔法だと思う。それがfinalventさんとこで書かれた「うまく言えないけど」で述べられていったものと共通しているのかどうか、それはわたしにはわからない。でもわたしのこんならんららんらんらんらんらんな感覚をまちがいなく呼び起こす文章だったと思う。
 リンクしたfinalventさんとこ文章の発端は、kmizusawaさんの更新停止だったけれど。非常に申し訳ないが、わたしはkmizusawaさんとこの更新停止には、ひとつの感想しか無い。それは「2年の壁を越えられなかった」ということ。理由はその人によって固有なものがみなそれぞれあるけれど、ブログ以前の個人サイトの時代から、わたしは「2年の壁」というものをよく感じていた。2年にさしかかる頃、2年を過ぎる頃、いろいろな理由で個人の場が終わることをたくさん見てきたと思う。同じような状況、同じような理由があっても2年の壁を越える人もいれば越えない人もいる。それはいいとか悪いとかそういうことではなく、ネット上で起きることのひとつなんだと思う。わかっていることは、更新を停止しようがしまいが、自分が関わったその人の記憶は自分の中に残したいと思うということ。IDも名前だ、そのうちすぐに出てこなくなるんだろうか。がんばれわたしのシナプス